葛野藩の歩み
元禄十年(1697年)四月十一日、5代将軍「徳川綱吉」が紀州藩邸を訪れた際、紀州藩2代藩主「徳川光貞」の四男「松平頼方(後の8代将軍徳川吉宗)」は綱吉に御目見し、綱吉から越前国丹生郡三万石を与えられ大名に取り立てられ諸侯に列しました。そして葛野藩を立藩します。
その後、紀州本家の当主が次々と死去し、頼方が紀州家の家督を継ぐこととなりました。これにより葛野藩は廃藩となり、所領は幕府領(天領)となりました。その後、頼方が吉宗と名前を改め将軍になると葛野藩領は鯖江藩の一部となりました。
のちの八代将軍が、最初に持った領地
この藩をひとことで言うなら、徳川吉宗が大名になった最初の場所です。
貞享元年(1684年)生まれの松平頼方は、紀州藩主・徳川光貞の四男でした。元禄十年(1697年)四月十一日、十四歳で越前国内三万石を与えられて大名の列に入ります。これがのちの八代将軍・徳川吉宗の第一歩でした。藩庁は丹生郡下糸生村の枝郷である葛野に置かれます。
ただし実態はかなり違いました。越前町の説明によれば、公称は三万石でも、陣屋の周りの下糸生村など十三か村は六千五百八十石でした。(頼方の領地全体は、丹生・坂井の二郡にまたがる四十五か村とされます。)しかも頼方は生涯一度もこの領地に足を運んでいません。代官を派遣しての遠隔統治でした。
宝永二年(1705年)、兄の頼職が紀州家を継ぎ、その頼職も同じ年の九月に亡くなったため、頼方が紀州藩主となります。葛野藩は上知され、九年で廃藩となりました。頼方は徳川吉宗と名を改めて紀州藩政を十二年主導し、享保元年(1716年)に将軍となります。
廃藩後も葛野陣屋は幕府の代官所として享保五年(1720年)まで十五年間使われ、その後は鯖江藩の成立にともなって周辺が鯖江藩領となりました。丹生郡はほかにも領主が入り組んでおり、三河西尾藩が明和元年(1764年)から明治四年まで丹生郡の四十一か村を飛地として領有し、大野藩も「西方領」という飛地を持っていました。ただし下糸生村そのものの幕末の領主までは確認できません。
正直に書きますが、葛野で幕末に何かが起きたという記録は見つかりませんでした。暴れん坊将軍の出発点は、本人が行ったこともない越前の山あいの、紙の上の三万石だったということになります。
吉宗の血筋と幕末の将軍たち
葛野の三万石から始まった吉宗の血筋は、そのまま江戸時代後半の徳川将軍家の本流になりました。吉宗は将軍となったあと、自分の子たちに田安家・一橋家を立てさせ、のちに孫の代で清水家が加わって「御三卿」となります。八代吉宗から十四代家茂までの将軍は、すべて吉宗の子孫です。十一代家斉は一橋家の出身で、十四代家茂は家斉の孫にあたる紀州藩主の家から迎えられました。
十五代慶喜だけは水戸藩の出身で、一橋家に養子に入って将軍となったため、吉宗の血は引いていません。そして慶応四年(1868)、慶喜の跡を継いで徳川宗家の当主となったのは、田安家の六歳の亀之助、のちの徳川家達でした。吉宗が立てた田安家の子が、駿府七十万石に移される徳川家を背負ったことになります。
葛野のその後—安政の大獄の老中の領地へ
葛野の周辺がのちに組み込まれた鯖江藩は、享保五年(1720)に間部家が入って立てた藩です。幕末の鯖江藩主・間部詮勝(あきかつ)は、安政五年(1858)に老中となり、大老・井伊直弼の命を受けて京都へ上り、尊王攘夷派の公家や志士の取り締まりにあたりました。安政の大獄で京都の弾圧を指揮した老中です。吉宗が足を運ぶことのなかった葛野の村々は、幕末にはその間部家の領地になっていました。
同じころの江戸—元禄の大火
勅額火事 葛野藩が置かれた元禄十年(1697)の翌年、元禄十一年(1698)九月、江戸で大きな火事が起きました。京橋から出た火は大名屋敷や町家を焼き、寛永寺の根本中堂に掲げられるはずだった天皇の勅額が届いた日に起きたことから「勅額火事」と呼ばれます。
火事の多い町 江戸は「火事と喧嘩は江戸の華」といわれるほど火事の多い町でした。のちに八代将軍となる徳川吉宗が、紀州藩の分家として葛野藩主となったのも、この元禄の江戸の時代のことです。
吉宗が一度も来なかった?領地—葛野藩と葛野神社の木像
綱吉の紀州藩邸訪問
元禄十年(1697年)、将軍綱吉が紀州藩邸を訪れたとき、紀州藩主・徳川光貞の四男・頼方(のちの八代将軍吉宗)に越前丹生郡の三万石が与えられました。同時に兄の頼職も三万石を受け、丹生郡に高森藩を立てています。頼方が兄たちのように綱吉に拝謁できず次の間に控えていたところ、老中・大久保忠朝の気配りで拝謁できた、という有名な逸話がありますが、兄と同じ官位・石高だったことから、根拠は薄いともいわれます。家格は親藩です。
紀州から来た「地方巧者」
領地の支配のため、紀州藩から神谷与一右衛門と大畑才蔵が派遣され、元禄十年の夏に丹生郡の村々を見て回りました。大畑才蔵は紀伊の庄屋出身で、灌漑の技術にすぐれた「地方巧者」として取り立てられた人です。のちに紀州で大規模な用水を開く才蔵が、若い吉宗の領地の見回りにも関わっていたことになります。支配にあたった家臣は合わせて十四人でした。
葛野神社の木像
陣屋跡はいまの葛野神社(越前町)で、境内の隅に陣屋跡の小さな碑があります。神社の木像は、もとは紀州藩祖・徳川頼宣の像とされていましたが、いつしか吉宗の像と伝えられるようになりました。陣屋があったことで商人や職人が集まり、葛野は周りの村より町らしい姿になったといいます。旧領の天下村について、幕末の福井藩主・松平春嶽の日記には「吉宗公が治めた村だから将軍になる吉兆だった」という話が残っています。
吉宗は来たのか
吉宗は葛野に一度も来なかったとされますが、寺社の古文書から「来たのではないか」と論じた研究もあります。将軍になる前の吉宗にとって、越前の三万石は最初の「自分の領地」でした。紀州から来た技術者が歩いた村々に、のちの享保の改革につながる経験があったのかもしれないと想像すると、小さな藩の見え方が変わってきます。



