木本藩/松平家2万5千石:松平直良 越前勝山藩へ加増転封となったため廃藩

木本藩 松平家2万5千石 最後の藩主 松平直良
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木本藩の歩み

元和九年(1623年)に越前福井藩主「松平忠直(結城秀康の子)」が改易された翌年、その弟である「松平忠昌」が福井藩主となります。このとき、忠直の弟たちに所領が分与されて「勝山藩」「大野藩」が成立し、付家老の本多成重も丸岡藩主として独立しました。木本藩も同じ時期に立藩され、忠直の弟「松平直良」が二万五千石を分与されて成立した藩です。しかし寛永十二年(1635年)に直良が勝山藩三万五千石に加増転封となったため木本藩は廃藩となりました。

廃藩のあと—幕末の木本

木本は越前国大野郡木本、いまの福井県大野市木本です。大野市の公式年表にも「寛永元年(1624年)松平直良、木ノ本に陣屋を構える」「寛永十二年(1635年)直良、勝山に転じ木ノ本は廃藩となる」と記されています。なお石高については、大野市公式が一万石とするのに対し一部資料は二万五千石としており、食い違いがあります。

木本村が幕末にどの領主のものだったかは、わかっていません。大野郡には大野藩・勝山藩・幕府領が混在しており、位置からすれば大野藩領だった可能性が高いのですが、確証はありません。

ただ、この地を語るなら幕末の大野藩に触れないわけにはいきません。天保十三年(1842年)、七代藩主・土井利忠が「更始の令」を発して藩政改革を始め、八年で借金を整理しました。嘉永四年(1851年)には城下に種痘の施術所を開き、安政元年(1854年)には小児への種痘を布告しています。安政二年には大坂に藩営店「大野屋」を出し、全国へ展開しました。

さらに安政五年(1858年)には幕府から北蝦夷地(樺太)開拓の許可を取り、翌年、西洋式帆船「大野丸」で屯田兵を送り出しています。戊辰戦争では藩兵百六十六名が箱館五稜郭に出兵し、十一名が戦死しました。四万石の山あいの藩が、蝦夷地まで手を伸ばしていたのです。

木本から明石へ—松平直良の家のその後

木本藩を開いた松平直良(なおよし)は、徳川家康の次男・結城秀康の子です。兄の松平忠直が改易されたあと、越前の所領は弟たちに分けられ、直良はその一人として木本に陣屋を構えました。のちに勝山、さらに寛永二十一年(1644)には同じ越前の大野へ移っています。木本・勝山・大野と、越前の山あいを少しずつ動いた家でした。

天和二年(1682)、直良の子・直明は播磨の明石へ移され、ここから明治まで、この家は明石藩主として続きます。江戸後期には十一代将軍・徳川家斉の二十五男・斉宣(なりこと)を養子に迎え、二万石の加増を受けて八万石、十万石格の家となりました。将軍家の血を入れたことで、家格が大きく上がったのです。

そのため幕末の明石藩は、徳川一門の家として佐幕の立場をとり、慶応四年(1868)の鳥羽伏見の戦いでは幕府方として出兵しました。敗戦後に新政府に帰順し、廃藩置県を迎えています。木本で二万五千石の分家として始まった家が、明石では将軍の子を迎える家門の大名になっていました。明石城には、いまも江戸時代の巽櫓と坤櫓が残っています。

同じころの日本—参勤交代の制度化

寛永十二年の武家諸法度 木本藩が置かれていた寛永年間、三代将軍家光は、寛永十二年(1635)に武家諸法度を改め、大名が一年おきに江戸と領地を行き来する「参勤交代」を正式な制度としました。大名の妻子は江戸に住むことが義務づけられ、大名は莫大な費用をかけて行列を組み、江戸へ上ることになります。

大名の統制 参勤交代は、大名の力を弱め、幕府への忠誠を示させる仕組みでもありました。木本藩の松平直良がのちに越前の勝山、さらに大野へと移されていったように、大名の領地替えも幕府の意のままに行われていた時代です。

結城秀康の六男と、真田の軍扇—越前松平一門の木本藩

兄たちに分けられた越前大野郡

木本藩は、越前の松平家(結城秀康の家)の一門が治めた親藩です。寛永元年(1624年)、越前大野郡が秀康の子どもたちに分けられました。直政が大野五万石、直基が勝山三万石、直良が木本二万五千石です。その前の元和二年(1616年)には、兄の松平忠直が三弟の直政に木本で一万石を分け与えていました。直政は大坂冬の陣の真田丸の戦いで奮戦し、真田信繁から軍扇を投げ渡されたとされます。その軍扇はいま、松江城の天守に展示されています。

五回名前を変えた藩祖・松平直良

直良は結城秀康の六男で、いまの永平寺町にあった津田信益の屋敷で生まれました。直久・直輝・直之・成政・直富と何度も名を変え、木本藩主のころは「直久」と名のっていました。寛永六年(1629年)には江戸城雉子橋の普請を受け持ち、木本では領内の諸役を免除しています。延宝元年(1673年)には、越前から出奔してきた大甥の松平直堅を江戸の藩邸にかくまいました。

陣屋はどこにあったのか、と堂島金山

木本藩の陣屋は、木本領家村に置かれたとみられます。直良が中世の山城・春日山城に入ったという説もありますが、『福井県史』は、木本に城はなく、領家村に館を設けたと推定しています。領内の堂嶋村(いまの大野市堂嶋)には堂島金山がありました。直良の家は、のちに播磨明石藩主となり、江戸城の大広間に詰める家として幕末を迎えます。子の直明は、伊予松山藩主・松平定頼の養女を正室に迎えました。

軍扇がつなぐ兄弟の記憶

木本藩は短い藩でしたが、越前大野の山あいで、家康の孫たちが兄弟で領地を分け合っていたことを伝えています。真田信繁の軍扇が出雲の松江城にあり、その持ち主の兄弟の家が明石で幕末を迎える。越前の小さな藩から、松平一門の広がりが見えてきます。

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