安居藩の歩み
「安居藩」という藩は、江戸時代の越前には置かれていません。ここは安居城の城下だった土地です。足羽七城と呼ばれた越前の城のひとつが、この丘の上にありました。
二代つづけて、負けた側の城になった
安居城は、斯波高経の家臣・細川出羽守が築いたと伝わります。のちに朝倉氏の城となり、朝倉景健が城主として入って安居氏を名乗りました。
天正三年(1575年)、織田信長の越前攻めで景健は自刃します。一乗谷が焼かれた二年後のことでした。
豊臣の世になると、城主は戸田勝成に替わります。ところがこの人も慶長五年(1600年)、関ヶ原で西軍について討死しました。大谷吉継の隊に属しての最期です。敵味方の別なく人望を集めた武将で、その死を惜しむ声が東軍側にもあったと伝えられる(諸説あり)。
朝倉景健、そして戸田勝成。この城は二代つづけて、時代の負けた側に立った人物の城でした。
幕末の安居は、福井藩領
関ヶ原ののち越前は結城秀康に与えられ、以後この一帯は福井藩の領地として幕末に至ります。安居に藩が置かれることは、ついにませんでした。
城跡には石碑と案内板が立っています。丘そのものは削られていて、堀や土塁をはっきりたどるのは難しい。城があったという事実だけが、地名と石碑になって残っています。
「足羽七城の一つ」という肩書き
安居城には、足羽七城の一つという肩書きがついています。南北朝期に越前守護の斯波高経が九頭竜川と足羽川の流域に築いた城塞群の総称で、もとになっているのは軍記物『太平記』の「七つの城を構えた」という記述です。ところがどの七つを指すのかは定まっていません。『日本城郭大系』は構ヶ城・勝虎城・藤島城・波羅密城・安居城・江守城・北庄城を挙げ、別の説では小黒丸城・和田城・黒龍城を数えます。どちらの数え方でも安居城は入っている、という位置づけです。
敵方からも惜しまれた城主
豊臣期の城主 戸田勝成(重政)は、慶長四年(1599年)に加増を受けています。石高は二万石とする史料と、一万石のままとする史料があって一致しません。関ヶ原では大谷吉継の隊に属し、小早川秀秋の離反のあとも戦って、織田長孝の隊に捕捉され槍を頭に受けて討死しました。嫡男の内記も討死し、戸田家はこれで絶えています。
『武功雑記』は、勝成には東軍の諸大名にも親しい者が多く、その死を聞いて皆が涙したと伝えます。『改正三河後風土記』にはもう一つ話があって、勝成を討ち取った槍が村正だと知った織田有楽斎が、徳川家と村正の因縁を聞かされ、家康の味方である自分がこの槍を使うべきではないと言って槍を砕いた、というのです。討った側の逸話が残るところに、この人の評判が出ています。
城跡は福井市金屋町
安居城跡があるのは福井市金屋町で、旧足羽郡東安居村にあたります。福井市には「安居」と「東安居」という似た地区名があり、城跡は東安居の側です。比高二十メートルほどの丘で、曲輪と土塁状の高まりが残り、石碑と案内板が立っています。福井市・福井県の指定史跡ではありません。
江戸時代の帰属は『旧高旧領取調帳』から確かめられます。足羽郡は明治初年の時点でほぼ全域が福井藩領でした。越前の支藩は吉江藩が延宝二年(1674年)、松岡藩が享保六年(1721年)に消えていて、幕末には残っていません。安居の地を治めていたのは、越前松平家ということになります。
朝倉氏の越前と一乗谷
安居城の城主・朝倉景健が仕えた朝倉氏は、戦国時代に越前一国を百年あまり治めた大名です。本拠の一乗谷(いまの福井市)には、谷の両側を土塁と城戸でふさいで館と城下町を築き、京都から公家や文化人を迎えて「北の京」と呼ばれるほどの文化が栄えました。しかし天正元年(1573)、当主の朝倉義景は織田信長に攻められて敗れ、一乗谷は焼き払われて朝倉氏は滅びます。その後も一族の景健らは越前に残りましたが、天正三年(1575)の信長の越前一向一揆攻めのなかで命を落としました。
焼かれた一乗谷は、そのまま田畑の下に埋もれていたため、昭和の発掘調査で戦国時代の町並みがほぼそのままの形で見つかりました。いまは国の特別史跡・一乗谷朝倉氏遺跡として、武家屋敷や町家の通りが復元され、戦国の城下町を歩いて体感できる場所になっています。
戸田勝成と大谷吉継
豊臣時代の安居城主・戸田勝成が関ヶ原の戦いで属した大谷吉継は、越前の敦賀五万石の大名でした。吉継は病を押して石田三成との友情のために西軍に加わり、松尾山の小早川秀秋の寝返りに備えて陣を構えましたが、その寝返りに続いて脇坂安治ら周りの諸将も東軍に転じたため、隊は崩れ、吉継は自刃しました(脇坂安治については美濃脇坂藩)。勝成も、この大谷隊の一員として最後まで戦い、討ち死にしたのです。
新田義貞の時代から続く丘城
『太平記』に出てくる城
日本歴史地名大系によると、安居城跡は福井市金屋町の大幸寺付近にあり、地元では「御殿地」と呼ばれています。『太平記』には、延元3年(1338)に新田義貞が軍を向けた五か所の一つとして安居城の名が出てきます。
朝倉氏の城主たち
朝倉氏の時代の城主は経景、景隆、景健と続いたとされます。景健は元亀元年(1570)、朝倉方の大将として浅井軍とともに京都へ兵を進めました。天正2年(1574)の一向一揆に加わり、いったん降伏したものの赦されなかったといわれます。
戸田勝成と城跡の今
戸田勝成の通称は半右衛門・武蔵守で、安居に移る前は越前松岡城で2万5千石を領していたとされます。織田有楽斎・長孝父子や津田信成とは友人で、勝成を討ったのは津田信成だという異説もあります。城跡は標高36m・比高20mの丘で、登り口は与須奈神社の奥と弘祥寺跡の二つ、遺構は削平地と土塁状の高まりくらいです。一帯はもと丹生郡西安居村で、昭和29年に福井市へ編入されました。
考察:小さな丘に重なる三つの時代
南北朝の新田義貞、戦国の朝倉氏、豊臣の戸田勝成。高さ20mほどの小さな丘に、三つの時代の戦いの記憶が重なっています。「藩」の名は後世のものでも、この丘の歴史の厚みは本物です。



