東郷藩の歩み
はじめに正直に書いておきたい。江戸時代を通じて、越前国に「東郷藩」という藩は置かれていません。諸藩の一覧にもこの名は出てきません。越前にあった藩は、福井・丸岡・大野・勝山・松岡・吉江・鯖江・敦賀などです。
ではここは何だったのか。答えは、東郷槙山城という城の城下だった土地、です。
一乗谷の、外側にあった城
東郷槙山城は応永年間に朝倉正景が築いたと伝えられます。一乗谷に本拠を構えた朝倉氏の、足羽川沿いを押さえる支城のひとつでした。
天正元年(1573年)に一乗谷が焼かれて朝倉氏が滅んだあとも、この城は残ります。天正十三年には長谷川秀一が城主となり、のちに丹羽氏が入りました。本家が消えてから、なお四半世紀ほど別の主のもとで使われ続けたことになります。
終わりは慶長五年(1600年)です。関ヶ原で丹羽氏が西軍についたため改易され、城は廃されました。越前が福井藩の結城秀康に与えられたのは、その直後のことです。
幕末の東郷は、福井藩領
以後この地に藩は置かれず、東郷村・上東郷村・下東郷村・東郷中島村はいずれも福井藩の領地として幕末を迎えました。松平春嶽が藩政改革を進め、橋本左内を育て、そして失った—あの福井城の城下から、足羽川をさかのぼった先がここです。
城跡は福井市の市指定史跡として保存されており、土塁や郭、堀の跡をたどることができます。二の丸にあたる部分は駐車場になっています。城の名を残す地名だけが、藩の名として一覧に紛れ込んだ格好です。
城を継いだのは、丹羽長秀の次男でした
本文で「丹羽氏が入った」と書きましたが、これは長秀でも長重でもありません。『福井県史』でたどると順序がはっきりします。天正十三年(1585年)四月に丹羽長秀が北庄で死去し、子の長重が継いだものの、同年八月に家中不和を理由に越前領を没収され若狭一国へ移されました。代わって越前には堀秀政が北庄、長谷川秀一が足羽郡東郷、木村常陸介が府中に配されます。
長谷川秀一は文禄三年(1594年)二月、出兵先の朝鮮で亡くなりました。ただ死後も一族が判物を出しているので、越前の領知はしばらく続いたようです。そのあと東郷に入ったのが丹羽長正、長秀の次男で長重の弟にあたる人物です。天正十五年(1587年)に五万石を与えられたという伝えがありますが、いつ東郷へ移ったのかは明らかになっていません。慶長五年(1600年)、西軍に呼応して北国口を守ったため除封されました。
大野藩の参勤交代が通った宿場
江戸時代の東郷は、東郷街道と朝倉街道が交わる要衝の宿場町でした。大野藩の参勤交代の道筋になったことで町並みが整ったと、福井市の観光公式は説明しています。城が廃されたあとも人と荷は通り続けたわけです。
幕末の帰属は上東郷村・下東郷村・東郷村・東郷中島村の四村すべてが福井藩領でした。地区の特産は東郷米、日本酒、そして蘭麝酒。地区の中央を流れる堂田川は世界かんがい施設遺産「足羽川用水」の一部で、その沿道にいまも造り酒屋が残っています。
指定名は「槇山城跡」
福井市の指定史跡としての登録名は「東郷槙山城跡」ではなく「槇山城跡」です。時代は室町から織豊、所在地は小路町・安原町・栃泉町とされています。山頂の主郭から尾根続きに大きな堀切が続き、西側からは車で二の丸付近まで上がれます。城の名は地名として残り、その地名が藩名の一覧に紛れ込んだ—というのが、この「東郷藩」の正体です。
家康の伊賀越えに付き添った長谷川秀一
東郷槙山城の主となった長谷川秀一は、織田信長の側近として仕えた武将です。天正十年(1582)五月、武田家を滅ぼした祝いに安土を訪れた徳川家康を、信長はていねいにもてなし、そのあと家康が堺の見物に出かけたとき、秀一は信長の命で案内役として付き添っていました。
六月二日、本能寺の変の知らせが届くと、家康はわずかな供回りで、伊賀の山道を抜けて三河へ逃げ帰ります(伊賀越え)。秀一は畿内の地理や人脈に通じていたことから、この危険な逃避行を導く役目を果たしたと伝えられます。同じく案内役として付き添った西尾吉次は、そのまま家康の家臣となりました(原市藩)。秀一のほうは信長の死後、羽柴秀吉に仕え、のちに越前東郷で大名となっています。家康の生涯最大の危機ともいわれる伊賀越えに立ち会った二人の織田家臣が、それぞれ違う主君のもとで生きたことになります。
「米五郎左」丹羽長秀の一族
秀一のあとに東郷へ入った丹羽長正の父・丹羽長秀は、信長の重臣で、安土城の普請奉行を務めました。米のように欠かせない人物という意味で「米五郎左」と呼ばれたと伝えられます。長秀の家は、関ヶ原のあと一度すべてを失いましたが、長男の長重の代に常陸古渡から立ち直り、のちに陸奥の二本松藩主として幕末を迎えました(常陸古渡藩)。
標高122mの山城と、安土宗論の奉行
安土宗論を仕切った長谷川秀一
長谷川秀一は織田信長に仕え、天正7年(1579)の安土宗論を取り仕切った人物です。東郷城主となって「羽柴東郷侍従」と呼ばれ、文禄の役で朝鮮に渡り、文禄3年(1594)2月に亡くなりました。石高は11万石とする資料と15万石とする資料があります。美濃の長谷川守知(美濃長谷川藩)とは別人で、古い本では取り違えも見られます。
城跡の今
東郷槇山城跡は福井市の指定史跡です。標高122m・ふもとからの高さ100mの山城で、曲輪・土塁・堀切・石垣・天守台が残り、天守台には長谷川秀一の石碑があります。二の丸までは車で行けて、JR越美北線の越前東郷駅から歩くこともできます。
宿場町としての東郷
秀一の時代に城のふもとに町ができました。江戸時代には大野藩の参勤交代が通り、東郷街道と朝倉街道が交わる宿場町として栄えたとされます。丹羽長正が城を去った後、城は慶長6年(1601)ごろに廃城になりました。
考察:城がなくなっても道は残った
豊臣時代に終わった城の町が、江戸時代には大名行列の通る宿場として生き続けました。城下町から宿場町へという変身は、越前の多くの小城下が歩んだ道でもあったと思います。



