藤井藩/稲垣家2万石:稲垣重綱 越後三条藩へ加増転封のため廃藩

【藩名】
藤井藩

【説明】
元和元年(1615年)、「稲垣重綱」が「大坂の陣」で戦功を挙げたことにより、上野国「伊勢崎藩」1万石から藤井藩2万石に加増移封されました。しかし元和6年(1620年)、さらに3,000石の加増の上で越後「三条藩」へ移封となり藤井藩は廃藩となりました。

目次

幕末の藤井は、どうなっていたか

藤井藩が置かれていたのは越後国の藤井——現在の新潟県柏崎市藤井です。稲垣重綱が伊勢崎藩から移ってきて成立しましたが、わずか四年で三条へ移り、藤井藩は消えました。元和六年(一六二〇年)のことです。

それから二百四十年あまり。幕末の柏崎一帯は、桑名藩の飛び地でした。桑名藩はここに柏崎陣屋を置いて、越後の所領を治めています。

この飛び地が幕末の柏崎を舞台にします。桑名藩主は松平定敬——会津藩主・松平容保の実弟で、京都所司代を務めた人物です。鳥羽・伏見で敗れたあと、定敬は江戸から柏崎へ入りました。桑名藩はこの地で新政府軍と戦うことになります。

藩としての藤井は江戸のごく初期に消えましたが、その土地は幕末の戦場になったわけです。

藤井城のいま

新潟県柏崎市藤井には、いまも藤井城の跡が残ります。単郭の方形の主郭を持ち、堀と土塁が複数の方向に残っているといい、現地には由来を記した碑が立つと伝えられます。稲垣重綱が二年ほどで加増転封となったため、築城の途中で城は廃されたとみられています。なお重綱が藤井へ入ったのは元和二年(1616年)で、元和元年とする資料もあります。

柏崎陣屋は大久保にあった

柏崎陣屋の跡は柏崎市大久保二丁目で、大洲小学校の東側にあたります。もとは寛保二年(1742年)、白河藩主の松平定賢が従来の扇町陣屋に代えて大久保の微高地に築いたもので、東西百間、南北五十間、およそ五千坪ありました。領内二百二十一か村を支配しています。

文政六年(1823年)三月、松平定永が白河から桑名へ移った際、越後柏崎の所領もそのまま持ち込まれました。越後側の石高は五万九千石で、桑名本領の八万三千石と合わせて表高十一万石、実高は十四万石ほどです。魚沼・刈羽・三島・蒲原の四郡にまたがる広大な飛び地でした。

陣屋の跡地はいま住宅地で遺構はありませんが、中央に石碑と案内板が立ち、昭和五十一年二月に柏崎市の史跡に指定されました。明治にはここに柏崎県庁が置かれています。

鯨波戦争——柏崎が戦場になった日

慶応四年(1868年)三月二十九日、松平定敬は柏崎に上陸しました。大久保一翁の勧めで、横浜からプロイセン船に乗って越後の飛び地へ渡ってきたのです。

定敬は当初、柏崎で恭順する道を考えていました。しかし新政府は定敬を許さず、主戦派が藩論を握ります。閏四月の初めに抗戦の決意が固まり、恭順派の代表であった家老の吉村権左衛門は暗殺されました。閏四月十三日、柏崎陣屋で抗戦のための軍事体制が整います。

新政府軍が進撃を始めたのは四月二十一日で、海沿いを進んで柏崎をめざしました。閏四月二十七日、鯨波で両軍が衝突します。新政府軍は薩摩・長州・加賀など六藩およそ二千五百人、黒田と山県が参謀を務めました。迎え撃つ側は桑名藩二百五十人、会津脱藩士による衝鋒隊二百人、浮撃隊百人です。桑名軍は二十八日の早朝までに刈羽郡妙法寺村へ退き、柏崎は新政府軍の手に落ちました。

定敬自身は、後方との連絡の都合から指揮を家臣に任せて柏崎を離れています。北越を戦い抜いたのは、立見尚文らが率いた桑名藩兵のほうでした。定敬は七月に会津、八月に米沢、九月に仙台と移り、十月に榎本武揚の艦隊で蝦夷地へ渡って箱館戦争に加わります。

柏崎に残る戊辰の跡

陣屋跡のすぐ近く、柏崎市大久保の勝願寺は、松平定敬が本陣を構えた寺です。境内には桑名藩戊辰戦争戦死者の碑と墓があり、箱館で戦死した桑名藩士・竹内武雄の墓も残ります。竹内は明治元年九月に新選組へ加わり、翌年四月に箱館で戦死した人です。定敬は維新後も何度かこの寺を訪ねています。

学校町には柏崎招魂所と戊辰墓石群があり、こちらは新政府軍側の墓所です。戊辰戦争で戦死した五十八人が葬られ、忠魂碑と墓石群、説明板が立っています。敵味方の墓が同じ町に残っているところに、柏崎という土地の戦後がうかがえます。

【場所・アクセス・地図】

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