伊勢崎藩/酒井家2万石:酒井忠彰 自ら謹慎して新政府に恭順した伊勢崎藩

【藩名】
伊勢崎藩

【説明】
幕末には本家の「姫路藩」が佐幕派だったため新政府から警戒されたが、8代藩主「酒井忠強」は自ら謹慎することで恭順の意を示しました。早くから恭順したことで無事に戊辰戦争を生き抜きました。その後、明治2年(1869年)6月の「版籍奉還」により忠強の跡を継いだ「酒井忠彰」は伊勢崎藩知事となり、明治4年(1871年)の「廃藩置県」により伊勢崎藩は廃藩となりました。藩主酒井家は明治17年(1884年)に子爵となりました。

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前橋・酒井家ゆかりの伊勢崎藩

伊勢崎藩は、上野国佐位郡伊勢崎(現在の群馬県伊勢崎市)に置かれた二万石の藩です。藩主の酒井家は、徳川譜代の名門で前橋藩主も務めた酒井雅楽頭家につらなる一族で、その分家として伊勢崎の地を治めました。城を持たず陣屋を構える大名でしたが、上州(上野国)の要地の一つを預かる立場にありました。

自ら謹慎して恭順

戊辰戦争にあたって伊勢崎藩は、自ら謹慎の姿勢を示して新政府への恭順を表明しました。譜代でありながら旧幕府に殉じる道を選ばず、いち早く時流に従うことで家名を保ったのです。小藩が動乱の時代を生き抜くための、現実的な判断だったといえます。

本家は佐幕、分家は恭順

伊勢崎藩の酒井家は、前橋(厩橋)藩主・酒井忠清の次男 忠寛が天和元年(一六八一)に二万石を分知されて興した分家です。以後九代、約二百年続きました。

ここで押さえておきたいのは、本家がその後どこへ行ったかです。酒井雅楽頭家は寛延二年(一七四九)に播磨姫路藩へ移りました。つまり幕末の伊勢崎藩にとって、宗家は姫路藩ということになります。

そして幕末の姫路藩主酒井忠惇は老中を務めた佐幕派の中心人物でした。本家が佐幕、分家は恭順——伊勢崎藩の去就が注目されたのは、この構図があったからです。

八代藩主酒井忠強(ただつよ)は嘉永四年に家督を継ぎ、異国船来航への警護にあたりました。慶応四年(一八六八)には新政府にいち早く恭順し、自ら謹慎して協力の姿勢を示したうえで、千両と兵糧五百俵を献じて許されています。東山道軍への具体的な出兵は確認できず、献金と献穀という形での協力でした。忠強は同じ年の六月に隠居し、弟で養子の酒井忠彰(ただあき)が九代藩主となります。

元治元年十一月の天狗党の上州通過については、記録がやや情けない具合です。高崎市に残る資料は、上州諸藩の対応を並べたなかで伊勢崎藩について「発令日に一行遭遇」と記しています。追討命令が届いたその日に、もう通り過ぎていったということです。

幕末の伊勢崎織は「銘仙」ではなく「太織」

伊勢崎といえば銘仙を思い浮かべますが、幕末の時点ではまだその名で呼ばれていません。

江戸時代の伊勢崎の織物は太織(ふとおり)といい、屑繭や玉繭から引いた糸で織る、農家の自家用の布が出発点でした。それが中期以降、丈夫で洒落た縞柄として庶民に人気を得て、江戸・大坂・京都へも流れていきます。銘仙という呼び名が使われはじめるのは明治十三年に伊勢崎太織会社ができたころで、幕末を語るときは太織と書くのが正確です。

その太織の産地に、大きな衝撃を与えたのが安政六年(一八五九)の横浜開港でした。生糸が最大の輸出品となり、上州の生糸商人はいち早く横浜へ乗り込みます。養蚕農家と在郷商人には現金が流れ込みました。

ただし、いいことばかりではありません。生糸が輸出に吸い上げられて国内向けの原料は逼迫し、値が上がります。そして慶応二年(一八六六)の武州世直し一揆では、横浜貿易で潤った在郷商人が打ちこわしの標的になりました。一揆は秩父から始まり、同じ月のうちに上野国へ波及しています。開港がもたらした富と、それが生んだ格差が、そのまま暴動の的になったわけです。なお伊勢崎藩が鎮圧に動いたかどうかは確認できません。

陣屋と藩校

伊勢崎藩は城主格ではなく陣屋でした。跡地は現在の伊勢崎市立北小学校で、遺構は残っていません。同聚院に陣屋の門が移築されて残り、近くには市の重要文化財である旧時報鐘楼が建っています。

藩校は三代の酒井忠温が安永四年(一七七五)に開いた学習堂。あわせて五惇堂や遜親堂といった郷学校も育てました。二万石の藩としては、教育に熱心な部類です。

明治四年の廃藩置県で伊勢崎県を経て群馬県へ。酒井忠彰は明治十七年に子爵となり、明治二十三年には貴族院議員となりました。

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