徳美藩/伊丹家1万2千石:伊丹勝守 藩主自刃のため領地没収の上改易・廃藩

徳美藩 伊丹家3万5千石 最後の藩主 伊丹勝守
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徳美藩の歩み

寛永十年(1633年)二月、武田遺臣でもある幕臣「伊丹康勝」は下総国相馬郡の内にあった九千石の所領から甲斐山梨郡三千石を加増されて一万二千石を領する大名となり、甲府城番を兼ねました。康勝の所領である山梨郡栗原筋三日市場村の十組屋敷(山梨県甲州市塩山三日市場)に陣屋が設置されて「徳美藩」が立藩されます。

元禄四年(1691年)の当主「伊丹勝守」は、元禄十一年(1698年)九月に江戸城内で自殺。記録によると「勝守、26歳で失心しそのまま厠にて自害します。よって領地没収となる」と記載されています。これにより「徳美藩」は4代をもって改易となり所領は没収の上、廃藩となりました。

廃藩のあと—旧藩庁の目と鼻の先で、山梨唯一の戊辰の戦いが起きた

徳美藩は寛永十年(1633年)から元禄十一年(1698年)までのおよそ六十五年の藩です。四代・伊丹勝守が二十六歳で失心し、厠で自害したため領地を没収されました。

初代の伊丹康勝は佐渡奉行も務めた人物で、甲州市の資料によれば十九か村を十の組に編成して「十組」または「徳美藩」と称し、三日市場に置いた藩宅を「十組屋敷」と呼びました。石高は資料によって食い違いがあり、当サイトの表記とも一致しないため、ここでは触れません。

廃藩後の甲斐は、享保九年(1724年)に一国が幕府の直轄領となり、甲府城には甲府勤番が置かれました。在地は代官の支配です。

そして慶応四年三月六日(1868年3月29日)、旧藩庁から目と鼻の先で、山梨県内における戊辰戦争唯一の戦いが起こります。甲州勝沼—柏尾の戦いです。三日市場も柏尾も、いまは同じ甲州市内にあります。

新政府側は板垣退助の率いる土佐迅衝隊約百名に鳥取藩兵三百名ほど。旧幕府側は近藤勇の甲陽鎮撫隊で、新選組約七十名と銃隊百名、佐藤彦五郎の春日隊二十二名などを合わせて二百名に届きませんでした。板垣は三月五日にすでに甲府城へ入っており、先を越されたと知った近藤は甲府町奉行に書簡を送って時間を稼ごうとします。戦いは正午ごろに始まり、午後二時には旧幕府軍が敗走しました。

この戦いには後日談があります。板垣退助はもと乾という姓で、武田家臣の板垣信方にちなんで改姓した人物でした。それが甲斐の地で効きます。武田家旧臣の遺臣が帰ってきたと歓迎され、断金隊や護国隊が結成されました。名前ひとつが人心を動かしたことになります。

三日市場には「十組屋敷跡」の碑があり、甲州市の史跡に指定されています。勝沼の柏尾古戦場跡には近藤勇の銅像が立っています。

摂津から駿河、甲斐へ—海の武士・伊丹氏

徳美藩の伊丹家は、もとは摂津の伊丹(いまの兵庫県伊丹市)を本拠とした伊丹氏の一族とされます。藩祖・伊丹康勝の父・伊丹康直は、駿河の今川家に仕えて水軍を率い、今川家が滅ぶと武田信玄に仕えて、武田家の水軍の将となりました。山国の甲斐の武田家が駿河の海に進出したとき、その海の戦いを担ったのが伊丹氏だったのです。武田家の滅亡後、康直は徳川家康に仕え、伊丹家は武田遺臣の一つとして旗本の道を歩み始めます。

幕府の金庫番・伊丹康勝

康勝は、二代将軍秀忠・三代将軍家光のもとで幕府の財政を預かる勘定頭を務めました。のちの勘定奉行にあたる役目で、幕府の年貢や支出を管理する要職です。さらに佐渡奉行も兼ね、幕府の最大の財源の一つだった佐渡金山を監督しました。甲府城番として甲斐に戻り、旧主・武田家の地に陣屋を置いたのは、その功を認められて大名に取り立てられたあとのことです。武田の水軍の将の子が、徳川の金庫番として大名になったことになります。

その家が、四代目の当主の江戸城中での自害によって絶えたのは、元禄十一年(1698)のことでした。甲斐はやがて一国が幕府領となり、幕末には甲州勝沼で、近藤勇の甲陽鎮撫隊と板垣退助の新政府軍がぶつかることになります。

今川の海賊奉行の子孫—伊丹家と黒川金山

今川氏真の海賊奉行・伊丹康直

徳美藩の伊丹家の祖父・伊丹康直は、今川氏真の海賊奉行(水軍の指揮官)でした。元亀二年(1571年)には武田水軍として、北条方の伊豆水軍を駿河湾で撃退しています。のちに家康の下で清水の御船奉行を務めました。海の家が、のちに甲斐の山あいの藩主になったのです。家格は譜代です。

伊丹康勝—勘定奉行と三上山の植林

初代藩主・伊丹康勝は駿河の清水生まれで、徳川家の財政を担った人です。元和元年(1615年)から秀忠の命で近江の三上山に植林し、元和八年(1622年)には上使として山形へ行き、宇都宮の本多正純を詰問する役目を務めました。寛永十年(1633年)には家光に勘当されましたが、翌年、天海の口添えで復職しています。

斬られた勘定奉行と、大村藩の養子

二代の伊丹勝長は勘定奉行として、佐渡で反乱を企てた一派を鎮め、土佐藩と宇和島藩の沖之島の境界争いの評定にも加わりました。寛文二年(1662年)、江戸の役宅で駿河代官を不正会計の疑いで問いただしている最中に、刺し殺されています。勝長の四男・権吉は、娘婿の肥前大村藩主・大村純信の末期養子となり、大村純長になりました。当時は認められていなかった駆け込みの末期養子でしたが、勝長の働きかけで許されています。その後、大村藩で隠れキリシタンが大量に見つかった「郡崩れ」では、純長が実父を通じてすぐに幕府へ報告したため、藩はお咎めなしとなりました。

黒川金山と、終わり

三代の伊丹勝政は寛文三年(1663年)に甲斐の黒川金山の支配を任され、翌年には近江水口城の守備に就きました。勝政は四十歳を過ぎても男子がなく、弟を養子にしていましたが、四十八歳で勝守が生まれたため弟を廃嫡しました。その勝守が二十六歳で自害し、藩は終わります。海賊奉行に始まり、金山の支配へ。伊丹家は海と山の両方で徳川の財を支えた家でした。

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