久喜藩/米津家1万1千石:米津通政 出羽長瀞藩へ移封のため廃藩

久喜藩 米津家1万1千石 最後の藩主 米津通政
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久喜藩の歩み

譜代大名の「米津政武」が武蔵国久喜に領地を与えられ陣屋を設置し久喜藩が立藩されます。

寛政十年(1798年)七月、5代藩主「米津通政」が武蔵国内の所領六千四百石を出羽国村山郡内に移されたとき、久喜陣屋を廃して「長瀞陣屋」を築いたため、米津氏は「長瀞藩主」として存続しました。

幕末の久喜は、天領でした

久喜藩は貞享元年(1684年)に米津政武が立てた藩です。当初一万二千石で、のちに米津政容が家を継いだとき、自分が分けてもらっていた千石が幕府に取り上げられて一万一千石となりました。

陣屋は武蔵国埼玉郡久喜本町、いまの埼玉県久喜市にありました。久喜市の資料によれば、現在の中央公民館を西の角、御陣山児童遊園を北の角とする六千坪ほどの規模だったといいます。

ところが寛政十年(1798年)、五代・米津通政が出羽国村山郡の長瀞へ移されます。久喜の領地は幕府直轄地—天領になりました。

久喜市は「久喜藩の痕跡はほとんど残っていない」としています。米津氏に関わるものとしては、太田神社の石灯籠と天王院の扁額が挙げられています。

米津家は、幕末に千葉へ移ります

久喜を去った米津家のその後が面白いところです。長瀞藩となった米津家は、戊辰戦争で陣屋を焼かれました。慶応四年閏四月七日、天童藩が報復として長瀞陣屋を襲撃したのです。

そして明治二年、藩庁を上総国大網へ移して大網藩に。さらに明治四年には常陸国龍ヶ崎へ移り、龍ヶ崎藩として廃藩置県を迎えました。

蝦夷地の代わりに差し出された土地

久喜のいちばん意外な履歴は、藩が消えたあとに来ます。寛政十年(1798年)に米津家が出羽へ移って久喜の領地は幕府直轄になりました。その翌年、寛政十一年(1799年)、幕府は対ロシア政策として松前藩から東蝦夷地を上知させ、その代わりに武蔵国埼玉郡の五千石を松前藩主に与えます。対象になったのは久喜本町・久喜新町・野久喜村・古久喜村・所久喜村・上早見村・下早見村・樋ノ口村と下清久村の一部でした。

結果として年貢米の納め先は権現堂河岸から江戸の神田川平野河岸へ変わり、住民が松前藩の江戸屋敷へ奉公に出た記録も残っています。蝦夷地の警備という国の事情が、武蔵の村の年貢の運び先を変えた形です。この松前藩領は享和元年(1801年)から文化元年(1804年)までの短い期間で、また幕府領へ戻されました。

名代官と郷学

享和元年(1801年)、早川八郎左衛門正紀が久喜の代官として着任しました。出羽尾花沢・美作久世・備中笠岡を歴任した名代官として知られる人で、享和三年(1803年)に郷学「遷善館」を設立し、利根川と荒川の治水にも手腕を見せています。文化五年(1808年)に七十歳で亡くなりました。藩がなくなったあとの久喜に学校ができた、という順序です。

陣屋の跡は発掘されている

陣屋があったのは、現在の中央公民館を西角、御陣山児童遊園を北角とする六千坪ほどの範囲と久喜市は説明しています。遺跡名は御陣山遺跡、所在は久喜市中央四丁目です。昭和四十七年から平成八年にかけて十三回の発掘が行われ、堀跡と井戸跡が多数見つかりました。堀跡には天明三年(1783年)の浅間山噴火の火山灰が層になって残り、江戸時代の刀装具も出ています。土の中に、噴火の年が一本の線として記録されているわけです。

米津家の痕跡

米津家は三河以来の譜代で、読みは「よねきつ」です。政武の祖父 田政は小牧・長久手に加わった三河武士で江戸町奉行も務め、田政の伯父 米津常春は徳川十六神将の一人に数えられます。政武自身は貞享四年(1687年)に寺社奉行となり、元禄元年(1688年)に職務怠慢などを理由に罷免され、元禄十一年(1698年)に隠居、宝永五年(1708年)に亡くなりました。当時の大名評判記『土芥寇讎記』は政武を「文武共に学ばず」と手厳しく書いています。

久喜市指定の古文書「土屋家文書」(平成十一年四月一日指定)は、久喜町で代々組頭役を務め紅花と薬種を商った家の文書千四百七十六点で、米津家から度々御用金を課せられた記録が含まれます。また久喜八雲神社の山車行事(天王様・提灯祭)は市指定無形民俗文化財(平成十六年四月一日指定)で、天保十年(1839年)の史料に山車の部位を示す記述があり、安政二年(1855年)には六台が祭礼に出ていたことが確かめられています。

顔を隠す者を斬った町奉行の家—米津家と久喜、東久留米の大名墓所

初代北町奉行・米津田政

久喜藩主・米津通政の家は、江戸の初代北町奉行・米津田政を出した家です。田政は約二十年北町奉行を務め、笠などで顔を隠して歩くことを禁じ、夜に笠をかぶって歩いた者を斬罪にしたとされます。一族の米津常春は徳川十六神将の一人で、戦功十八度、一番槍十三度、傷は七十三か所あったといわれます。田政の子・田盛が寛文六年(1666年)に大坂定番となって大名に取り立てられました。家格は譜代です。

多摩でただ一つの大名墓所

東京都東久留米市の米津寺には、米津家の大名墓所があり、東京都の史跡です。多摩地区でただ一つの大名墓所とされます。寺を開いたのは田盛で、田盛・政矩・政崇・政懿の墓が並びます。墓は笠付き六角塔身型という、大名の墓としては他に例のない形です。

一万一千石になった理由

米津家は分知によって石高が少しずつ減りました。政武は父の一万五千石のうち三千石を弟に分けて一万二千石で継ぎ、政容は綱吉の小姓として寵愛されて兄の跡を継いだとき、自分が分けてもらっていた千石が取り上げられて一万一千石になりました。通政は農業を奨め、荒れ地を開発し、十四か条の藩法を定めています。

長瀞の雁城へ

通政の代に米津家は出羽長瀞へ移りました(長瀞藩)。長瀞陣屋は、二重の水堀と土塁をめぐらせた中世の長瀞城(別名・雁城)の跡に置かれています。戊辰戦争で長瀞陣屋は焼かれましたが、「米蔵の米は村民の共有物」と住民が嘆願して米蔵は焼かれずに済んだと伝わります。江戸の町を厳しく取り締まった奉行の家の米蔵を、村人が守った。久喜から長瀞へと移った家の、少し意外な結末です。

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