石戸藩/牧野家1万1千石:牧野信成 下総国関宿藩に加増移封のため廃藩

石戸藩 牧野家1万1千石 最後の藩主 牧野信成
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石戸藩の歩み

石戸藩は、現在の埼玉県上尾市北西部から鴻巣市南西部にかけてを統治した藩です。領内の川田谷(現在の桶川市川田谷)に陣屋を設置しました。

石戸藩祖は「牧野信成」です。牧野氏には同姓同名の人物が同時代にいるために混乱を生じやすいが、この信成は天正六年(1578年)、「牧野康成」の子として生まれ、慶長四年(1599年)に家督を継いだ人物です。

正保元年(1644年)三月十八日、信成は下総国「関宿藩」一万七千石に加増転封され、石戸藩は廃藩となりました。正保四年、信成が隠居すると石戸領五千石は隠居料となり、他の領地は子の尹成、永成、直成らに分与されました。

廃藩のあと—大名は去っても、領主は変わらなかった

石戸は武蔵国、いまの埼玉県北本市石戸です。寛永十年(1633年)に牧野信成が一万一千石に加増されて大名に列し立藩しましたが、正保元年(1644年)に下総関宿へ移って約十年で廃藩となりました。

ところがこの土地は、そこで領主が変わったわけではありません。慶安三年(1650年)に信成が没すると、本領の石戸領五千石は三人の庶子に分けられ、その三家の末裔が幕末まで石戸の領主を務め続けました。大名としての藩は十年で消えたのに、同じ一族が二百年以上治め続けたことになります。

『北本市史』には、牧野康成が「石戸城を中心に鴻巣から上尾に至る石戸二十か村五千石余を知行」したとあります。

正直に書きますが、幕末の石戸で何かが起きたという記録は見つけられませんでした。旗本の知行地として静かな農村だった、というのがこの土地の幕末です。

ただ、この一帯には別の面白さがあります。中山道の鴻巣宿は、もともといまの北本にありました。戦国のころここに宿場があり、慶長年間に宿が北の鴻巣へ引っ越したのです。残された旧地は本鴻巣村と呼ばれ、元禄年間に本宿村と改称。明治十二年に浦和の本宿と区別するため「北本宿」となりました。これが「北本」という市名の由来です。

石戸城跡と一夜堤が残るほか、東光寺には石戸蒲ザクラがあります。大正十一年に国の天然記念物となった樹齢八百年ほどの桜で、日本五大桜のひとつ。エドヒガンとヤマザクラの自然雑種が自生する唯一の例とされます。蒲冠者・源範頼が杖を挿したら根づいたという伝承が残ります。

父・牧野康成と、同名の別人

石戸藩の牧野信成の父は牧野半右衛門(讃岐守)康成で、家康の関東入りのあと武蔵石戸で五千石を与えられた旗本です。上野大胡二万石の牧野康成(長岡藩祖・忠成の父)とは同名の別人です。慶長五年(1600)の第二次上田合戦で、家臣の抜け駆けを咎められて謹慎したという話がよく知られていますが、それは大胡の牧野康成のことで、石戸の康成の話ではありません。石戸の康成は慶長四年(1599)に亡くなり、このとき信成が家督を継いでいます。

石戸を出た牧野家の幕末—丹後田辺(舞鶴)藩

信成は石戸から下総関宿へ移り、その子・親成は京都所司代を十四年にわたって務めました。寛文八年(1668)、親成は丹後の田辺(いまの京都府舞鶴市)三万五千石へ移され、この家はここで明治を迎えます。細川幽斎がかつて籠城した田辺城の主となったのです。

幕末の田辺藩は、譜代の家として京都の警備などにあたったのち、慶応四年(1868)の戊辰戦争では山陰道鎮撫総督に従って新政府側につきました。明治二年(1869)には、紀伊の田辺とまぎらわしいことから藩名を「舞鶴」と改めています。いまの舞鶴市の名は、このとき城の別名「舞鶴城」からとられたものです。石戸で十年だけ大名だった家が、京都の北の海辺で、新しい町の名を残したことになります。

石戸藩をもっと詳しく

牧野家が来る前の石戸

中世のこの地域は石戸郷と呼ばれました。戦国時代の初めに築かれたとされる石戸城(いまの北本市石戸宿)は、北足立郡域で最大とされる大きな城で、岩槻城(岩付城)と武蔵松山城を結ぶ、大宮台地北部の要の位置にありました。石戸は岩付太田氏の支配下に置かれていました。

石戸領五千石のはじまり

天正十八年(1590年)に徳川家康が関東に入ると、まもない九月七日、代官頭の伊奈忠次から牧野康成に「御知行書立」という文書が出されました。これにより、畔吉・領家・小敷谷・藤波(いまの上尾市)、日出谷・川田谷(いまの桶川市)、石戸八幡原(いまの北本市)、馬室(いまの鴻巣市)の八か村、五千石が引き渡されています。荒川の左岸、台地の上に並ぶ村々でした。五千石という数字は、知行割を急ぐために北条氏時代の貫高を引き継いだもので、翌年に実際の検地をして過不足を調整したとみられます。

文禄元年(1592年)には、家康の命により、鴻巣の浄土宗の寺・勝願寺が牧野家の檀那寺になったといわれます。勝願寺は浄土宗の「関東十八檀林」のひとつに数えられる寺で、信成もここに葬られ、のちに丹後田辺藩主となった歴代の牧野家当主も勝願寺に葬られました。

信成が大名になるまで

信成は関ヶ原の戦いに従い、大番頭、御小姓組番頭、御書院番頭と幕府の役職を進み、大坂の陣にも二度出陣して手柄を立てました。寛永三年(1626年)に留守居役となって二千石を加増され、寛永十年(1633年)四月二十三日にさらに四千石を加えられて合わせて一万一千石となり、大名に列しました。寛永十八年(1641年)に徳川家綱が生まれると、その傅(かしづき、養育係)にも任じられています。

藩が消えたあとの石戸領

信成が関宿へ移ったとき、石戸領五千石はまず嫡男・牧野親成の知行地とされました。親成は父とは別に幕府に仕え、当時は書院番頭をつとめていました。正保四年(1647年)に信成が隠居して親成が家督を継ぐと、石戸領はそのまま信成の隠居料となります。慶安三年(1650年)に信成が亡くなると、石戸領は庶子の尹成(二千石)、永成(千五百石)、成房(直成、千五百石)の三人に分けられ、この三家が幕末まで領主を務めました。

川田谷の陣屋

石戸領の中心の村とされたのは石戸宿村でしたが、牧野氏の陣屋は川田谷村の北西部、天沼に置かれ、「牧野本陣」「牧野陣屋」「川田谷陣屋」などと呼ばれました。慶安三年の分割で陣屋は永成の所領に入っています。元禄期(1688〜1704年)には旗本が江戸に住むようになり、このころまでに領主が住む陣屋としての役目は終わったとみられます。陣屋跡は明治の初めにおおむね削られて平らになり、平成十九年(2007年)の発掘調査では陣屋に関わる区画の溝などが見つかりました。

石戸宿には、家康らが鷹狩りの途中に立ち寄った徳川家の御茶屋(石戸御茶屋)も置かれていました。跡地(北本市石戸宿六丁目)には「御殿稲荷」があります。

この石高で動員できた兵の目安

江戸幕府の慶安二年(1649年)の軍役規定(案)とされるものでは、一万石あたり二百三十五人(騎馬十・鉄砲二十・弓十・槍三十・旗三)とされます。これを単純に当てはめると、一万一千石のこの藩はおよそ二百六十人が目安です。ただしこの規定は案のまま正式には出されなかったともいわれ、実際に動員した人数とは異なります。石戸藩は慶安二年より前に消えた藩なので、これは後の時代の物差しを当てた参考値です。

参考:Wikipedia「石戸藩」「牧野信成」

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