長瀞藩の歩み
幕末時の長瀞藩では、幕末の藩主「米津政明」のときに藩内で攘夷討幕を叫ぶ声が高まり始めます。政明は農民30余名を兵として取り立てて農兵を組織し、軍事改革を進めるなどの手腕を見せていました。しかし、藩内をまとめるだけの力は無く、慶応元年(1865年)十二月十一日に子の「米津政敏」に家督を譲って隠居してしまいます。
政敏が跡を継いだ翌年、東根山内で兵蔵騒動(村山世直し騒動)と呼ばれる事件が起こり、藩は混乱しました。戊辰戦争では庄内藩に与したため、慶応四年(1868年)閏四月に天童藩に陣屋を焼かれています。
その後、政敏は版籍奉還を行なって長瀞藩知事となり、これに伴い陣屋を長瀞から上総大網村に移しました。このため、長瀞藩は大網藩と改称され、政敏は明治二年(1869年)十一月二日に大網藩知事となりました。
出羽長瀞の米津家
長瀞藩は、出羽国(現在の山形県東根市長瀞)に置かれた一万一千石の藩で、藩主は米津家、陣屋を構える小藩でした。山形盆地の一角に所領を持つ、東北の小さな大名家でした。
庄内藩に与して苦境に
戊辰戦争において長瀞藩は、奥羽越列藩同盟の強豪・庄内藩に与して新政府軍と対峙しました。このため、新政府方についた近隣の天童藩によって陣屋を焼かれるなど、苦しい立場に立たされます。小藩が大藩の勢力争いのなかで翻弄された、戊辰戦争の非情さを伝える藩です。
陣屋は戊辰戦争で焼け、藩は七十年ぶりに上総へ戻りました
米津家が長瀞に来たのは寛政十年です
米津家はもと五千石の旗本で、寛文六年(1666年)に一万石を加えられて大名となり、このとき上総国山辺郡大網村に陣屋を置いたとされます。陣屋を武蔵の久喜に置いたとする説明もあり、当サイトの久喜藩のページはそちらに沿っています。出羽の長瀞へ移ったのは1798年(寛政十年)です。幕末までの七十年ほど、米津家は山形盆地の長瀞に陣屋を構えていました。
閏四月の陣屋焼失
慶応四年(1868年)閏四月七日、天童藩(吉田大八ら)が長瀞陣屋を攻めて焼きました。天童城を落とした庄内藩の軍勢が、帰り道に長瀞陣屋に泊まったことへの報復とされます。藩の立場については、藩が庄内藩側についたとする資料と、江戸にいた政敏は新政府側だったとする資料があります。上の段の「庄内藩に与した」という説明は、出羽の家臣や領民が庄内藩寄りだったことを指すものです。政敏が新政府への協力を約束したことで、藩は処分を受けませんでした。
陣屋の絵図が市の文化財です
陣屋そのものの遺構は残っておらず、復元された部分が多いとされます。その代わり、東根市は長瀞陣屋絵図を市指定文化財の第六号として、昭和四十一年(1966年)十月五日に指定しています。「江戸末期の米津家長瀞藩陣屋平面図」と説明されています。
最後の藩主政敏
米津政敏は嘉永四年(1851年)三月二十九日に生まれ、慶応元年(1865年)十二月十一日に家督を継ぎました。明治十七年に子爵となり、明治二十八年(1895年)十月三十日に亡くなっています。長瀞藩の藩主は通政・政懿・政易・政明・政敏と続き、1869年に城地が上総の大網へ移ったことで長瀞藩は終わりました。その後の大網での一年あまりは大網藩のページにまとめました。
長瀞に来て七十年ほどで陣屋は戦の中で焼け、米津家は上総の大網へ戻っていきました。いま長瀞で陣屋の姿を伝えているのは、市の文化財になった一枚の絵図です。
初代北町奉行の家と、藩主が開いた窯—米津家の長瀞藩
顔を隠して歩く者を斬った北町奉行・米津田政
長瀞藩の米津家は、江戸の初代北町奉行・米津田政を出した家です。田政は永禄六年(1563年)に三河国碧海郡米津で生まれ、家康の小姓を務めました。北町奉行としては、笠などで顔を隠して市中を歩くことを厳しく禁じ、違反した者を斬罪にしたとされます。慶長十七年(1612年)には、捕まった旗本奴・町奴の大鳥逸平を取り調べています。米津家は寛文六年(1666年)まで五千石の旗本で、田盛が大坂定番になったときに大名に取り立てられました。家格は譜代です。
江戸に住んだ定府の大名
米津家は、参勤交代をせず江戸に住み続ける「定府」の大名でした。長瀞には代官を送って治めていました。幕末には、庄内藩主・酒井忠器の十男と十一男が続けて養子に入っています。戊辰戦争で長瀞藩が庄内藩についた背景には、この深い縁組もありました。最後の藩主・政敏の妻は、老中を務めた堀田正睦の娘とされます。
藩主が始めた「上ノ畑焼」
天保四年(1833年)、藩主の米津政懿は陶工に頼んで、領内の上ノ畑(いまの尾花沢市、銀山の近く)に登り窯を築かせました。青い釉薬をかけた磁器が焼かれましたが、冬の寒さで窯を保つことができず、約十年で廃窯になっています。
明治の大網・龍ヶ崎、そして陸軍中尉の子爵
明治二年(1869年)十一月、米津家は藩庁を飛び地の上総国山辺郡大網村に移して大網藩とし、明治四年(1871年)二月には常陸の龍ヶ崎村に移しました。政敏は明治十七年(1884年)に子爵となり、陸軍戸山学校を出て陸軍中尉まで進み、貴族院議員も務めています。
北町奉行の家は、最後まで「江戸の家」だった
初代北町奉行を出し、定府の大名として江戸に住み続け、最後は藩庁を江戸に近い上総・常陸へ移していく。米津家は、出羽の長瀞に領地を持ちながら、ずっと「江戸の家」だったのだと思います。その家の殿様が雪国で窯を開こうとした上ノ畑焼の話は、だからこそ印象に残ります。
長瀞藩をもっと詳しく
中世の長瀞城を陣屋にした藩
長瀞藩の陣屋は、中世の長瀞城の跡に置かれていました。長瀞城は鎌倉時代の建長年間に西根氏が築いたとされ、のちに最上氏の城となります。15世紀に満家がここに入り、小さな城下町として発展しました。満家を最上氏4代とする資料と、斯波満家とする資料があります。城は最上義光の時代に本格的に整えられ、水堀と土塁を二重にめぐらせた方形の平城で、ふつうは三の丸までのところ、四の丸まであったとされます。元和8年(1622年)に最上氏が改易されると山形藩の領地となり、鳥居氏・保科氏の時代を経て、寛文11年(1671年)からは幕府の陣屋が置かれました。本丸を囲む堀の跡はいまも残り、町の骨格になっています。
藩ができる前の大事件—長瀞質地騒動
米津家が来る前の幕府領時代、長瀞村では大きな騒動が起きています。享保7年(1722年)に幕府は流地禁止令を出し、質に入れた田畑が質流れになることを禁じました。ところが名主らはこれを村人に知らせず、のちに法令を知った村人たちは、質に入れた土地を取り戻せる徳政令だと受け取ります。当時の長瀞村では、債権者46人に対して債務者は300人余り、証文はおよそ320通、金額は約3980両にのぼっていました。享保8年(1723年)、村人たちは神水を飲んで結束を誓い、金主の家々から質地証文を奪い取ります。幕府の命で山形藩の兵が出て鎮圧され、磔2人、獄門4人、死罪2人、遠島9人などの重い処罰が下されました。幕府は同じ年のうちに流地禁止令を撤回しています。
武蔵から出羽へ移された6400石
寛政10年(1798年)7月6日、久喜藩主だった米津通政の所領のうち、武蔵国内の6400石余りが出羽国村山郡に移されて長瀞藩が生まれました。所領は出羽のほか、武蔵・上総・下総・常陸にも散らばっていました。通政は翌寛政11年(1799年)に長男の政懿へ家督を譲っています。政懿の跡を継いだ政易は殖産興業に努めましたが病弱で、万延元年(1860年)に弟の政明へ家を譲りました。明治3年(1870年)10月8日、大網藩となっていた米津家の羽前国の管轄地4486石余りが山形県に移され、同じ月の29日に引き渡されます。代わりの土地は後日沙汰とされたため、藩は12月8日付で救済を願い出ました。翌年2月に藩庁を常陸の龍ヶ崎村へ移し、龍ヶ崎藩となるのは、こうした事情のあとのことです。
天童の戦いと、焼け残った米蔵
慶応4年(1868年)閏4月4日、庄内藩の軍勢が新政府側についた天童藩を攻め、天童城を落としました。長瀞陣屋が天童藩に焼かれたのは、その3日後の閏4月7日で、天童の戦いへの報復でした。このとき隠居の政明らは庄内領へ退いていました。陣屋は焼き払われましたが、村人たちの嘆願によって米蔵は焼かれずに残っています。
1万1000石の動員の目安
慶安2年(1649年)の軍役規定(案)とされるものでは、1万石あたり235人を出すことになっています。これを長瀞藩の1万1000石に当てはめると約258人で、十人単位に丸めた動員兵力の目安はおよそ260人です。この規定は案のまま発布されなかったとする説もあります。
米津家の墓所と、その後
米津家の祖先は三河の松平家に仕え、米津政信は元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いで討死しました。「米津」の読みは「よねきづ」「よねきつ」「よねつ」「よねづ」など一定していません。旧前沢村、いまの東京都東久留米市幸町の米津寺には米津家の大名墓所があり、東京都の史跡に指定されています。子爵となった政敏のあと、家は政賢、政福と続きましたが、政福に男子がなく、家系は絶えました。


