舟戸藩の歩み
元禄元年(1688年)、本多正貫の孫の正永が寺社奉行になり一万石に加増されて大名となりました。そして「舟戸藩」が立藩されました。正永は元禄十四年(1701年)に上総・下総国内において五千石を加増され、元禄十六年(1703年)一月に上野国沼田藩へ移封となり舟戸は「沼田藩」の飛び地となりました。
その後、本多氏は享保十五年(1730年)に駿河国田中藩に移されたが、舟戸は田中藩の飛び地として明治元年(1868年)まで続きました。
廃藩のあと—幕末の船戸
本多正永が沼田へ移ったあとも、本多家は下総の領地を手放しませんでした。のちに駿河田中藩となった本多家の飛地として、船戸陣屋と藤心陣屋で幕末まで支配が続きます。藩がなくなっても陣屋は現役だったわけです。
飛地の領域は現在の柏・鎌ケ谷・我孫子・松戸・流山・野田・市川にまたがりました。ここは「江戸の台所」と呼ばれ、年貢米のほか薪・藁・竹など二十品目ほどが江戸の藩邸へ送られています。
その二百五十年が終わるのは明治元年(1868年)七月十三日です。徳川宗家が駿府へ移されるのにともない、田中藩は安房の長尾藩へ玉突きで転封となりました。下総の領地は本多家の手を離れ、下総知県事の管轄に入ります。長尾藩は当初、白浜に近い滝口に陣屋を建てましたが明治二年の台風で倒壊し、翌年から北条の旧海防陣屋を改修して使いました。
柏市には船戸陣屋跡と藤心陣屋跡が地名とともに残り、市の歴史文化基本構想にも位置づけられています。
舟戸藩は、二度ありました
舟戸に藩が置かれたのは一度ではありません。一度目は元和年間、本多正重が下総相馬郡で加増されて一万石格となり、舟戸に陣屋を構えたときです。ところが正重はまもなく隠居し、相続のときに八千石へ減じられたため、この藩は一年足らずで姿を消しました。柏市の案内では、正重が陣屋を構えたのは元和元年(1615年)ごろとされています(一万石となった元和二年=1616年に陣屋を構えたとする資料もあります)。
二度目が本多正永の代です。旗本七千石から天和二年(1682年)に丹波で二千石、元禄元年(1688年)に相馬郡で一千石を加えられて一万石に達し、大名に列しました。さらに元禄十四年(1701年)に五千石、元禄十六年(1703年)にもう五千石で計二万石。上野沼田藩への移封は元禄十五年とする説と元禄十六年正月十一日とする説があり、資料で一年のずれがあります。
二つの陣屋、どちらが本拠か
船戸陣屋は柏市船戸、藤心陣屋は柏市藤心にありました。千葉県教育振興財団『研究紀要』第二十八号(2013年)によれば、敷地は船戸が二百一坪、藤心が六百六十四坪で、藤心のほうが三倍以上広いことになります。ただし、どちらが本拠だったのか、いつ移ったのかを示す史料は見つかっていません。
藤心には旧記録が残っていて、陣屋跡は藤心字大宮にあり、里の人は「御代官跡」「御役所跡」と呼んでいた、維新前は本多紀伊守配下の役所だった、と記されています。建物は明治二年に取り壊されました。もう一つ面白いのは地名です。柏市北西部に昭和前期まであった「田中村」という村名は、本多家の所領が駿河田中藩にあったことに由来すると、柏市歴史文化基本構想が説明しています。藩庁が駿河にあった痕跡が、下総の村名として残っていたわけです。
飛地の大きさ
田中藩の領地は全体で百二十六村・五万二千四百九十六石、そのうち下総国が四十三村・およそ一万八千石でした。葛飾郡三十三村と相馬郡十村で、船戸・藤心・増尾・花野井・松ヶ崎・布施・高柳・藤ヶ谷などが含まれます。柏市の案内は市域内十四か村を支配したとしています。飛地とはいえ、藩全体の三分の一ほどにあたる規模です。
二百五十年の終わり方
明治元年(1868年)、徳川宗家の駿府移封にともない本多正訥は七月に安房への所替を命じられ、長尾藩となりました。旧譜代四万石です。正訥は明治三年十二月十四日に隠居し、明治十八年十一月一日に亡くなっています。華族令で子爵になったのは甥の本多正憲で、正訥は授爵していません。
船戸陣屋跡・藤心陣屋跡はいずれも柏市の指定文化財ではありませんが、柏市歴史文化基本構想に「船戸代官所跡」「藤心陣屋跡」として位置づけられ、藤心には市の文化財めぐりの案内板が立っています。現況は畑です。
槍の三弥の家—本多正重と舟戸、そして流山
本多正信の弟・正重
舟戸藩の藩祖・本多正重は、家康の参謀・本多正信の弟で、「槍の三弥」と呼ばれた武将です。三河一向一揆では一揆側として勝鬘寺に立てこもり、大久保忠世と鉄砲を撃ち合ったと伝わります。大坂の陣のあとには、恩賞を受けた旗本たちに橋の上で武功を問いただしたという話も残ります。墓は京都・泉涌寺の法音院にあります。正重の死後、一族はいったん大名から外れましたが、その理由には遺言説と本多正純の進言説があります。家格は譜代です。
利根川に面した陣屋
舟戸陣屋(いまの千葉県柏市)は利根川に面し、対岸の水海道・下妻方面への近道にあたりました。ただし江戸時代に正式な渡し場は認められていませんでした。のちの藩主・本多正永は若年寄を経て宝永元年(1704年)に老中となり、上野沼田、駿河田中へと移りました。沼田城はすでに壊されていて、本多家は「城主大名」でありながら、三の丸を直して館を建てる程度だったといいます。
二つの陣屋と加村陣屋
駿河田中藩となった本多家は、下総の領地を「中相馬領」と「南相馬領」に分け、舟戸の役所が北を、藤心の代官所が南を受け持ちました。幕末には流山郊外の加村台に加村陣屋を築いて下総領の拠点とし、明治初めには葛飾県庁・印旛県庁として使われています。同じ流山では、慶応四年(1868年)四月、近藤勇が長岡屋に陣を置いて新政府軍に投降しました(流鉄流山駅から徒歩約五分)。
国替えに反対した村々
明治元年、本多家が上総長尾へ移されることになると、下総の領地の四十二か村の農民が国替えをやめてほしいと運動を起こしました。槍の三弥に始まる家が、二百五十年後には領民に引き留められる殿様になっていた。舟戸の名は、いまもつくばエクスプレスの「柏たなか駅」の近くの地名として残っています。



