【藩名】
栗原藩
【説明】
元和2年(1616年)、「成瀬正成」は尾張藩主となった家康の九男「徳川義直」の付家老となったため陪臣扱いとされました。所領下総や各地に分散していたが尾張犬山へ移されました。この時、正成の次男「成瀬之成」が父の領知のうち下総と三河国内1万4000石を分与され、自身の武蔵国幡羅郡1000石と合わせて「栗原藩」1万5000石の2代藩主となります。
成瀬之成は「徳川秀忠」の小姓として「大坂の陣」に参戦し、秀忠の命で根来足軽衆を率いるなど信任が厚かったです。元和9年(1623年)にそれまでの功績によって近江国内に1000石の加増を受けて1万6000石となりました。
寛永11年(1634年)に徳川家光の上洛に従った「成瀬之成」は急逝し、さらに跡を継いだ「成瀬之虎」が寛永15年(1638年)に早世したため、栗原成瀬氏は無嗣断絶で改易となり廃藩となりました。
【栗原の土地は、幕末に船橋の戦場になりました】
まず陣屋の場所です。正確な位置は判明していません。千葉県の調査機関は、延宝六年(1678年)の検地帳に屋敷跡の記載があることを根拠に、船橋市西船六丁目の宝成寺の北西あたりを推定地としています。宝成寺は成瀬家の菩提寺で、いまも成瀬家の墓所が残り、船橋市で唯一の大名関係の墓として市の文化財に指定されています。
改易は寛永十五年(1638年)、之虎が五歳で早世したためでした。そのあと栗原はどうなったか。船橋市の資料が明快です。「幕府の直轄領となり、幕末まで代官支配地として続きました」。佐倉藩領ではありません。
その代官支配の土地が、幕末に戦場になります。慶応四年(1868年)閏四月三日、市川・船橋戦争です。江戸城の明け渡しに不服だった旧幕府の将士が脱出し、福田道直の率いる撒兵隊およそ二千人が木更津へ上陸、北上して船橋に入り、船橋大神宮に本営を置きました。武装解除の要求を拒んで、早朝五時ごろ、八幡の岡山藩陣地へ先制攻撃をかけます。
初めは撒兵隊が押しましたが、増援で逆転します。佐土原藩の兵が大通りの中央あたりから大神宮へ砲撃し、砲弾が当たって社殿が燃え上がりました。これが戦いの転機でした。
被害はひどいものでした。船橋を構成する三つの村で八百十四軒が焼失——五日市が二百二十一軒、九日市が五百六十二軒、海神が三十一軒。西海神で六十軒、市川宿でも百二十七軒が焼けています。戦後に政府から船橋宿へ三千両、市川宿へ五百両が下されました。
焼けた大神宮の境内では、明治十三年(1880年)に地元の寄付で灯明台が建てられます。一階と二階が和風、三階の灯室が西洋風という折衷の建物で、明治二十八年まで政府公認の民設灯台として働きました。石油ランプと錫の反射鏡で十一キロ先まで光が届いたといいます。千葉県の指定文化財です。
成瀬家の本家は犬山藩として続きました。長く尾張藩の附家老という身分でしたが、慶応四年正月に新政府の維新立藩によって正式な大名として独立を認められます。幕末の当主は成瀬正肥でした。
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