愛知県岩倉市の神明生田神社。住宅地の中に小さな森があり、境内に「山内一豊公誕生地」の碑が立っています。
山内一豊は、のちの土佐藩二十万石の藩祖です。幕末に大政奉還を建白した山内容堂も、坂本龍馬や武市半平太を生んだ郷士の制度も、元をたどればこの人の土佐入りから始まります。幕末の土佐藩の「いちばん最初」を見に、岩倉へ行ってきました。

先に答え—一豊の誕生地はどこか
- 岩倉市の神明生田神社の境内に誕生地の碑がある(岩倉市指定史跡)
- 根拠は、大正八年(1919)の神社の遷座式で見つかった一枚の棟札
- 山内家が家史編纂の担当者に調べさせ、ここを誕生地と認めて碑を建てた
- ただし一宮市木曽川町の黒田城を誕生地とする説もあり、決着はしていない
- 近くに岩倉城跡があり、そこの「織田伊勢守城址」碑は安政七年(1860)建立
神社の入口から


道ばたに「山内一豊公生誕記念碑 神社境内にあります」という案内柱が立っていて、迷うことはありません。境内は広くはありませんが、社殿の脇に誕生地の碑、説明板、大河ドラマの記念碑がまとまっています。


説明板を読む

境内の説明板(岩倉市教育委員会)には、こう書かれています。要点を書き起こします。
山内一豊は天文十四年(1545)、岩倉城の家老山内但馬守盛豊の二男として、この地に誕生した。
大正八年(1919)二月、神明生田神社の遷座式に一枚の棟札が発見され、これが一豊のこの地での誕生の有力な資料となり、山内家で家史編纂の沼田頼輔文学博士に調査を行わせ、岩倉のこの地を一豊誕生の地と認め、ここに贈従三位山内一豊公誕生地の碑を建てた。
父・盛豊は岩倉城落城(永禄二年三月)のとき戦死。一豊十五歳の時であった。その後、一豊は家臣の五藤浄基が供で母や弟妹と共に刈安賀の城主浅井新八郎の許に身を寄せ、しばらくして牧村政倫のもとに寄寓。ついで山岡景隆に仕え、永禄十年(1567)〜元亀元年(1570)頃織田信長に仕えた。
天正十二年(1584)には近江長浜で五千石の領主となり、同十八年(1590)年、遠州掛川に移封六万石の領主となった。秀吉の死後、徳川家康に味方し、慶長五年(1600)年、四国土佐で二十万二千六百石の領主となり、高知城を築城。そして五年後の慶長十年(1605)年九月二十日、一豊没す。享年六十一歳。
面白いのは、誕生地が決まったのが大正時代だということです。一豊が生まれてから三百七十年あまり後、神社の建て替えで出てきた棟札がきっかけでした。調べさせたのは、明治以降に侯爵となった土佐山内家。幕末を生き延びた藩主家が、自分たちの家の始まりの場所を確かめに来たことになります。


もう一枚の説明板—「五万石」と「六万石」

神社の近く、五条川沿いにも岩倉市の小さな説明板がありました。こちらには「天文14年(1545)岩倉城主織田伊勢守の家老山内盛豊の第二子として誕生。盛豊死後、15歳で美濃を浪々し、後、豊臣秀吉に従い天正18年(1590)に掛川5万石の城主となった。秀吉の死後は徳川家康に味方し、慶長5年(1600)土佐20万石の領主となって高知城を築城した。慶長10年(1605)没 61歳」とあります。
境内の板は掛川「六万石」、川沿いの板は「五万石」。同じ岩倉市の説明板で数字が食い違っています。掛川の石高は資料によって五万石とも六万石とも書かれるので、どちらかが誤りというより、拠った資料の違いでしょう。現地で並べて読むと、こういう揺れに気づけます。
大河ドラマ「功名が辻」の記念碑

境内の脇には、平成十八年の大河ドラマ「功名が辻」の放映記念碑もあります。上に大きく彫られているのは山内家の家紋、三つ葉柏。幕末の土佐藩の船や旗にも使われた紋です。
すぐ近くの岩倉城跡—幕末に建った「織田伊勢守城址」碑

一豊の父・盛豊が家老として仕えた岩倉城の跡は、神社から車で数分のところにあります。いまは住宅地の一角に碑と説明板が残るだけです。
説明板によると、岩倉城は文明十一年(1479)頃、織田伊勢守敏広が築いた城です。敏広はこの城から尾張の上四郡(丹羽・葉栗・中島・春日井)を支配し、下四郡(愛知・知多・海東・海西)を支配する清洲城の織田大和守と並んで、当時の尾張でもっとも重要な城でした。のちに城主の織田信安が、信長の弟・信行と通じたことから信長と対立し、子の信賢の代、永禄二年(1559)に落城します。このとき一豊の父も討死しました。


そして説明板の最後に、こうあります。「古文路の『織田伊勢守城址』の碑は安政七年(一八六〇)に建てられたものである」。
安政七年は、三月三日に桜田門外の変が起きた年です(この年のうちに万延と改元)。江戸で大老・井伊直弼が斬られたその年に、尾張の片隅で、三百年前に滅びた城を記念する碑が建てられていた。幕末の人々も、戦国の城跡を「史跡」として見ていたことがわかります。今回の旅でいちばん意外だった一行でした。
一豊から幕末の土佐藩へ
岩倉で生まれた一豊は、父を失って浪々し、信長・秀吉・家康に仕えて土佐一国の主になりました。ここから幕末までの線を、短くまとめておきます。
- 藩主の血筋:一豊には実子がなく、二代藩主の忠義は弟・康豊の子。幕末の十五代・山内豊信(容堂)は、一門の南屋敷山内家から入って藩主になった人です
- 上士と郷士:一豊は掛川から連れてきた家臣を上士とし、長宗我部の旧臣は郷士として下に置きました。坂本龍馬は郷士、武市半平太は白札。幕末土佐の身分の壁は、一豊の入国から始まっています
- 大政奉還:慶応三年(1867)、容堂は後藤象二郎の進言を受けて将軍徳川慶喜に大政奉還を建白しました
- 戊辰戦争:鳥羽・伏見のあと、土佐藩は板垣退助らが東山道を進み、会津まで戦いました
岩倉の小さな神社の碑から、高知城、そして京都の二条城へ。一本の線でつながっていると思うと、境内の碑の見え方が少し変わります。
歩いてみて
正直に言うと、来る前は「誕生地の碑が一本あるだけ」だと思っていました。実際その通りなのですが、説明板を読み込むと話が広がります。誕生地を決めたのが大正の山内家だったこと、同じ市の二枚の板で石高が違うこと、そして岩倉城跡の碑が桜田門外の変と同じ年に建っていたこと。
掛川城、長浜城、岡豊城と、一豊と土佐藩ゆかりの地を歩いてきましたが、その出発点にようやく立てた気がします。境内は静かで、参拝ついでに十分ほどで回れます。
アクセスと地図
神明生田神社/愛知県岩倉市。名鉄犬山線の岩倉駅から東へ歩いてすぐ、五条川の近くです。今回は名古屋方面から日帰りで車で回りました。境内の碑と説明板、五条川沿いの説明板、少し離れた岩倉城跡をあわせて三十分ほど。五条川は桜の名所なので、春に行くなら川沿いを歩くのもよさそうです。
現地を訪ねるときの宿は、じゃらんnetの「岩倉周辺の宿」で探せます(PR)。
あわせて読みたい
- 土佐藩(高知藩)/山内家二十万二千六百石—戊辰戦争を戦い抜いた土佐藩
- 土佐藩の有名人を身分で分けると—上士・白札・郷士・地下浪人・庄屋
- 【現地取材】岡豊城跡—長宗我部の敗北が生んだ「郷士」と、幕末土佐の身分の壁
- 【現地取材】長浜城跡—秀吉が免じた年貢三百石は、幕末まで生きていた
- 【現地取材】掛川城—幕末に天守は無かった。井伊直弼が据え、そして切った老中の城
- 高知城—山内一豊が関ヶ原の戦功により得た土佐の城
- 土佐藩の四国鎮撫とは—高松・松山は戦わずに開城
文・写真:佐藤秀信(すべて現地で撮影)


