【藩名】
高岡藩
【説明】
慶応4年(1868年)の「戊辰戦争」では新政府に従い、藩主「井上正順」は従五位下・宮内少輔に叙位任官します。その後、「版籍奉還」により高岡藩知事になり、廃藩置県で藩知事を免職となりました。明治8年(1875年)には警視庁15等を拝命し、翌9年(1876年)には警部補に昇進しました。
高岡藩主の井上家は幕末期に浜松藩を領した井上家の分家筋にあたり、常陸下妻藩と共に、みな平穏無事に明治維新を迎えています。明治4年(1871年)の廃藩置県で高岡藩は廃藩となり、高岡県となります。のちに高岡県は新治県を経て千葉県に編入されました。
下総の一万石・高岡藩
高岡藩は、下総国香取郡高岡(現在の千葉県成田市高岡)に置かれた一万石の藩で、藩主は井上家、城を持たず陣屋を構える小藩でした。成田にほど近い下総の地を治め、江戸を守る関東の大名家の一つでした。
家名を保った恭順
幕末の高岡藩は、戊辰戦争にあたって新政府軍への恭順を選び、家名を守りました。石高こそ小さいものの、関東の一角を代々受け継ぎ、動乱の時代を無事に乗り切った堅実な小藩です。明治の廃藩置県まで、その歩みを続けました。
切支丹屋敷をつくった大目付の藩
高岡藩を立てた井上政重は、幕府のキリシタン政策を担った人物です。
政重は天正十三年(1585年)の生まれで、寛永九年(1632年)に幕府の大目付(当時は惣目付)となり、宗門改役を兼ねました。江戸小日向にあった政重の下屋敷は、キリシタンを幽閉する施設として使われ、「切支丹屋敷」と呼ばれます。宣教師の取り調べもここで行われました。
その政重が寛永十七年(1640年)六月十二日に六千石を加増されて一万石となり、大名に列して高岡藩が成立します。藩庁は下総国香取郡高岡村、いまの千葉県成田市高岡です。ただし陣屋が実際に築かれたのは三代藩主の井上政蔽の代で、政重のときではありません。
藩主から警察官へ
最後の藩主は十一代の井上正順です。安政元年(1854年)の生まれで、慶応三年三月に父の正和の隠居によって家督を継ぎました。妻は徳川斉昭の十二女・愛子です。
戊辰戦争では新政府に従い、明治元年五月八日に従五位下・宮内少輔に叙されました。版籍奉還で高岡藩知事となり、廃藩置県で免官となります。
ここからが珍しいところです。正順は明治八年(1875年)に警視庁十五等を拝命し、翌明治九年に警部補へ昇進しました。一万石の大名が、廃藩の四年後に警察官として働いていたことになります。明治十七年に子爵、明治三十七年に五十一歳で没しました。
高岡陣屋跡
高岡陣屋の跡は千葉県成田市高岡千二百番地にあたります。いまは農協の敷地となり、遺構はほとんど残っていません。農協の前と御住居跡の周りに、堀跡のわずかな痕跡が見られる程度です。
ただし三峰神社の鳥居のわきに「高岡陣屋之蹟」の石碑が立ちます。ほかに「中ノ門」「下」と刻まれた石碑、天満宮も敷地内にあります。下総歴史民俗資料館には陣屋の復元模型が展示されています。
幕末の下総と、成田
高岡の近くで幕末に動いたのが、印旛沼の掘割普請です。
天保十四年(1843年)六月、老中の水野忠邦が三度目となる印旛沼の開疏工事を計画しました。六万人、二十三万両を投じる大事業です。手伝い普請を命じられたのは鳥取藩、庄内藩、沼津藩、秋月藩、そして請西藩の五藩でした。
目的は江戸の防衛と物流の確保にあります。外国船に浦賀を封鎖された場合に備え、利根川から印旛沼を経て検見川へ抜ける水運路で、北関東や銚子から江戸へ物資を運ぼうという構想でした。ところが同年閏九月に水野が失脚して工事は挫折し、翌年六月に正式に中止となっています。異国船への備えが内陸の掘割工事という形で現れたところに、この時代の切迫が出ています。
成田山新勝寺の江戸出開帳も、幕末まで続いていました。元禄十六年(1703年)に深川永代寺で始まり、江戸時代を通じて十二回、うち一回を除いてすべて深川永代寺を会場としています。最後の出開帳は安政三年(1856年)でした。
成田市三里塚は、幕府の佐倉七牧の一つである取香牧があった場所です。明治二年に佐倉牧が廃されたあと、明治八年に内務省が下総牧羊場を開き、取香牧は取香種蓄場となりました。これがのちの宮内庁下総御料牧場の前身です。三里塚には御料牧場記念館があります。
もう一つ、成田市宗吾の宗吾霊堂も幕末と無縁ではありません。佐倉惣五郎は江戸前期の人ですが、義民伝説が形をなしたのは江戸後期で、嘉永四年(1851年)の歌舞伎『東山桜荘子』は農民一揆を扱った最初の作品として「義民物」というジャンルを生みました。安政六年の南山一揆では、惣五郎の話を講釈に仕立てて一揆を組織した例まであります。
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