久留里藩の歩み
戊辰戦争のとき、最後の藩主「黒田直養」は新政府軍に帰順し、慶応四年(1868年)二月、15代将軍「徳川慶喜」が上野寛永寺に謹慎したときには「榊原政敬」と共にその警護を務めました。

直養は翌年の「版籍奉還」で久留里藩知事となりました。明治四年(1871年)の「廃藩置県」では久留里藩は廃藩となり、その後「久留里県」を経て木更津県に編入されました。
房総の要害・久留里城
久留里藩は、上総国望陀郡久留里(現在の千葉県君津市久留里)に置かれた三万石の藩で、山あいの要害・久留里城を居城としました。江戸に近い上総の地にあって房総半島の内陸を押さえる位置にあり、譜代大名の黒田家が藩主として幕末まで治めました。城下町の面影は、今も久留里の町並みに残っています。
家名を守った身の処し方
幕末の政局が旧幕府と新政府に大きく割れるなか、久留里藩はいち早く新政府への恭順を選び、混乱のなかでも家名を保ちました。江戸に近く旧幕府との縁も深い土地柄でありながら、時代の流れを冷静に読んで進退を決した、堅実な小藩の姿がうかがえます。
福岡黒田家ではない黒田家
久留里藩の黒田家は、筑前福岡の黒田家とは別の家です。徳川綱吉の家臣であった黒田用綱の一族で、寛保二年(1742年)、黒田直純が上野の沼田藩から三万石で入って久留里藩を再び立てました。直純は廃城になっていた久留里城を建て直し、城下町を整えています。
ただし藩財政は早くから苦しく、三代の直英のころには困窮が深刻になりました。倹約も俸禄の改革も効き目がなく、幕末には異国船に備える海防の費用と大坂加番の出費が重なって、悪化の一途をたどります。七代の直静の時代に藩校の三近塾が開かれました。
恭順した藩、脱藩した藩
最後の藩主は黒田直養です。慶応四年(1868年)二月、十五代将軍の徳川慶喜が上野寛永寺で謹慎したとき、高田藩主の榊原政敬とともにその警護を務めたと伝えられます。ただしこの話は久留里藩側の記録に見えるもので、高田藩の側には記されていません。
直養が新政府へ恭順したのは同年閏四月でした。ちょうどそのころ、同じ上総で正反対の決断をした殿様がいます。請西藩(貝淵藩)の林忠崇です。旧幕府軍の遊撃隊に援けを求められた忠崇は、領民に累が及ばぬよう自ら脱藩し、同意した藩士七十人とともに遊撃隊へ加わり、出陣にあたって真武根陣屋を焼き払いました。大名みずから脱藩したのは、幕末を通じてこの人だけです。
上総・安房の諸藩は、旧幕府軍から兵を出せと迫られて苦しみました。飯野藩は老臣が兵二十人を差し出し、その老臣はのちに佐貫で切腹しています。佐貫藩は金三百両と兵器を送って援兵は断りました。勝山藩は三十一人を半ば脱藩の形で送り出し、箱根山崎の戦いで十五人を失っています。久留里藩がこの局面でどう動いたかを示す記録は、見つかっていません。はっきりしているのは、閏四月に新政府へ恭順したという一点です。
雨城—霧に隠れる山城
久留里城は「雨城(うじょう)」の名で知られます。君津市の説明では由来に二つの説があり、築城ののち三日に一度、二十一回雨が降ったからとも、山に霧が立ちこめて城が遠くから見えず、雨が降っているように見えて敵から城を守ったからともいわれます。霧降城、浦田城という別名もあります。
明治五年の廃城令で城は失われ、昭和三十年に城山公園として整備されました。天守は鉄筋コンクリート造で再建されたもので、完成は昭和五十三年とも五十四年とも記されます。浜松城の模擬天守を手本にしたため、幕末に実際に建っていた二層二階の天守とは姿が違います。二の丸には君津市立久留里城址資料館があり、上総掘りの展示も行っています。
上総掘りと、生きた水
久留里を歩くと、あちこちで湧き水に出会います。地下四百から六百メートルから自噴するこの水は「生きた水・久留里」として、環境省の平成の名水百選に選ばれました。
水を汲み上げているのは上総掘りという技術です。竹ひごと掘鉄管、削り屑を取る「スイコ」を組み合わせて深い井戸を掘る方法で、江戸時代後期に原形ができ、明治中期に君津の地で改良されました。職人の手で全国へ、さらに海外へも広がった技術で、「上総掘りの技術」は平成十八年三月に国の重要無形民俗文化財に指定されています。
久留里市場の真勝寺には、最後の藩主である黒田直養の墓があります。天文九年(1540年)に開かれた曹洞宗の寺で、山門は城門をかたどったものです。境内には嘉永四年(1851年)の水源が残り、竹の樋で町へ水を配っていたと伝わります。水の町である久留里らしい寺といえます。
久留里城を実際に歩いた様子は、【現地取材】久留里城を歩くにまとめています。
久留里藩をもっと詳しく
藩の成り立ち—最初の久留里藩
久留里藩の始まりは、天正十八年(1590年)に徳川家康が関東へ移ったときです。家臣の大須賀忠政が三万石で久留里に入りました。忠政は関ヶ原の戦いの手柄で六万石となり、慶長六年(1601年)に遠江国横須賀(いまの静岡県掛川市)へ移っています。
土屋家の時代と新井白石
慶長七年(1602年)、土屋忠直が二万石で久留里に入りました。忠直の父は、武田勝頼に最後まで従った武田家の家臣・土屋昌恒です。武田家がほろびたあと、忠直は家康の側室・阿茶局の養子となり、二代将軍となる秀忠のそば近くに仕えて大名にとりたてられました。
二代目の土屋利直の時代には、のちに六代将軍家宣のもとで「正徳の治」と呼ばれる政治を進める学者・新井白石と、その父の正済が土屋家に仕えていました。白石の学問の出発点は、この久留里の殿様の家にあったのです。
しかし三代目の土屋直樹は、延宝七年(1679年)八月に心の病を理由として領地を取り上げられました(改易)。先祖の功績が考えられ、家は三千石の旗本として残されています。このあと久留里には、しばらく大名が置かれませんでした。
黒田家の藩主のルーツ
六十年あまりたって久留里藩をふたたび開いた黒田直純は、宝永二年(1705年)の生まれで、実は駿河田中藩主・本多正矩の四男でした。上野国沼田藩主の黒田直邦の養子となって沼田藩を継ぎ、そのあと久留里へ移って三万石の久留里藩主黒田家の初代となりました。大坂加番や奏者番などの役を務め、安永五年(1776年)に七十一歳で亡くなっています。黒田家は直純から直養まで九代、明治まで続きました。
藩の終わりと明治以降
明治四年(1871年)の廃藩置県でできた久留里県は、木更津県を経て、明治六年(1873年)に千葉県の一部となりました。藩主の黒田家は華族となり、のちに子爵を授けられています。
領地のようす
領地はおもに上総国望陀郡の村々で、いまの千葉県君津市を中心とした地域です。小櫃川の流れる山あいの土地で、城下の久留里は房総の内陸を結ぶ交通の要でした。
この石高で動員できた兵の目安
江戸幕府の慶安二年(1649年)の軍役規定(案)とされるものでは、一万石あたり二百三十五人(騎馬十・鉄砲二十・弓十・槍三十・旗三)とされます。これを単純に当てはめると、三万石のこの藩はおよそ七百十人が目安です。ただしこの規定は案のまま正式には出されなかったともいわれ、実際に動員した人数とは異なります。
参考:Wikipedia「久留里藩」、コトバンク「久留里藩」「土屋忠直」「黒田直純」
場所・アクセス・地図
久留里の現地を歩いた記録
久留里藩の城跡は、当サイトの運営者が実際に訪ねて撮影しています。記事は次の一本です。
残っている石垣や堀、現地の解説板に何が書かれているかは、文献だけでは分かりません。写真はすべて現地で撮影したものです。藩の歴史を読んだあとに、その藩が拠った場所を見てみてください。



