飯野藩/保科家2万石:保科正益 戊辰戦争勃発時に徳川慶喜の助命を求めた飯野藩主 保科正益

【藩名】
飯野藩

【説明】
飯野藩最後の藩主「保科正益」は大坂定番を務め、慶応2年(1866年)5月26日には「若年寄」にまで栄進し、「第二次長州征伐」では征長軍の指揮をとりました。慶応4年(1868年)、「戊辰戦争」が勃発すると、正益は新政府軍に恭順する代わりに徳川宗家「徳川慶喜」の助命を求めて入京しようとしたが、親戚筋の「会津藩」が徹底抗戦の構えを取ったため、正益は連座して謹慎処分となりました。

これに対して正益は新政府軍の房総掃討戦で旧幕府軍に与した家臣を処刑して謹慎を解かれています。翌年の「版籍奉還」により飯野藩知事となり、明治4年(1871年)の「廃藩置県」で飯野藩は廃藩されて飯野県となり、木更津県を経て千葉県に編入されました。

目次

保科家の飯野陣屋

飯野藩は、上総国(現在の千葉県富津市)に置かれた二万石の藩で、藩主は保科家でした。城を持たず陣屋を構える大名でしたが、その飯野陣屋は規模の大きさで知られ、日本三大陣屋の一つに数えられます。保科家は、会津松平家ともつながる由緒ある家柄でした。

徳川慶喜の助命を嘆願

戊辰戦争が始まると、飯野藩主・保科正益は、朝敵とされた前将軍・徳川慶喜の助命を新政府に嘆願したと伝えられます。旧主への恩義を忘れず、危険を承知で寛大な処置を願い出たその姿勢には、譜代の家に流れる忠義の心がよく表れています。

照姫の実家、そして会津への窓口になった二万石

保科の名を血で継いだのは、こちらの家でした

保科という名で真っ先に思い浮かぶのは会津藩の保科正之でしょう。ただし正之は二代将軍徳川秀忠の子で、保科正光の養子です。飯野藩を開いた保科正貞のほうは保科正直の実子、正光の弟にあたります。血筋でいえば保科家の実系は会津ではなく、この上総の小藩に残りました。会津はのちに松平姓を名のり、保科の名を離れています。

二万石のうち一万五千石は、上総にありませんでした

正貞は慶安元年(1648年)に摂津国の豊島・川辺・能勢・有馬の四郡で一万石を加えられ、あわせて一万七千石で飯野に居所を構えました。二代正景の代に丹波国天田郡で五千石が加わって二万石になります。つまり二万石のうち一万五千石は摂津と丹波の飛地で、上総の飯野は陣屋の置かれた土地ではあっても、領地の中心ではありませんでした。江戸湾に面した房総に陣屋を構えながら、収入の大半は上方から上がってくる。飯野藩はそういう形の藩です。

いまも水を湛えている薬研堀

飯野陣屋は本丸から三の丸まで東西四百三十メートル、南北二百九十メートルにおよぶ規模でした。その外周を巡る堀が「飯野陣屋濠跡」として昭和四十二年(1967年)三月七日に千葉県の史跡に指定されています。千葉県の説明によれば、幅五メートル、断面がV字形の薬研堀で、いまも水を湛えています。陣屋の域内には前方後円墳の三条塚古墳が残り、その麓に藩校の明親館が置かれていました。三条塚古墳は令和七年(2025年)九月十八日に内裏塚古墳群の一部として国の史跡に加えられています。陣屋跡には飯野神社が鎮座し、大手口はその参道になりました。なお飯野陣屋を越前の敦賀、周防の徳山と並べて「日本三陣屋」と呼ぶ言い方が広く行われていますが、これは明治の小説家の一文にさかのぼるとされるだけで、学術的な典拠は確認できていません。

照姫という一本の線

飯野藩が会津と深く結ばれていたのは、人によってです。九代藩主保科正丕の娘、のちの照姫は、天保十三年(1842年)に十歳で会津藩八代藩主松平容敬の養女となり、松平照と名を改めました。容保の義姉であり、最後の藩主保科正益の実姉にあたります。会津戦争では若松城に籠もった婦女子の総指揮にあたり、開城後は坂下の妙国寺で謹慎、明治二年(1869年)十二月には飯野藩邸へ預け替えとなりました。

連座して謹慎した男が、半年後には会津の窓口になりました

正益は慶応二年(1866年)五月に若年寄まで進んだ幕府の要職者でした。慶応四年(1868年)四月、松平容保に連座して京都北野で謹慎処分を受けます。そして同年六月、幕府側に与した家臣を処刑したことで罪を許されました。一説に、上洛は徳川慶喜の助命を願うためだったとも言われますが、富津市の年表にその記載はなく、伝承として扱うのが正確です。

注目したいのはその後です。富津市は、会津若松城の開城後、新政府から会津藩への伝達や命令は直接ではなく、大方が飯野藩主保科正益を通じてなされていたと記しています。会津と親しかったがゆえに謹慎させられた人物が、半年のうちに、その会津へ新政府の言葉を運ぶ役になった。姉が城に籠もり、弟が城の外で取次をする。幕末の縁戚関係というものが、どういう形で人を動かしたのかがよく見える例です。

歴代藩主の墓は東京都杉並区の大円寺にあり、富津市内に残るのは二代正景の墓だけです。青木の淨信寺にあり、昭和四十八年(1973年)に市の史跡に指定されています。

処刑されたのは、箱根で戦った家臣でした

ここは細かいところですが、押さえておきます。保科正益が謹慎を解かれるきっかけになった処刑は、房総の掃討戦に加わった家臣を罰したものではなく、箱根戦争に出た責任を問われたものでした。慶応四年六月十二日、首謀者として家老の樋口盛秀が切腹のうえ打首、野間銀治郎が打首となっています。二人です。その七日後の六月十九日、首謀者を誅したとして藩の罪が赦され、謹慎が解かれました。

藩主の留守に、二十名が抜け出していました

発端は房総にありました。正益は二月末に上洛を命じられ、三月十四日に出発しますが、二十一日に東海道の草津で入京を差し止められ、京へ入れたのは四月六日です。その留守のあいだの閏四月三日、飯野藩士の大出鋠之助にひきいられた二十名が、請西藩主・林忠崇や遊撃隊に加わって富津陣屋を囲みました。このとき陣屋を守っていたのは前橋藩の兵で、老臣の小河原多宮が兵と大砲を渡したうえで切腹しています。正益が会津藩の縁で連座して謹慎させられたのは、その四月のことでした。

剣術指南役は、会津で死にました

もう一人、この藩から出た人がいます。中小姓で剣術指南役を務めた森要蔵です。北辰一刀流の千葉周作の門で玄武館四天王に数えられた剣客でした。脱藩して会津へ向かい、慶応四年七月一日、白河口の下羽太手前にある戸ノ内で土佐隊と撃ち合い、次男で十六歳の虎尾ら五名とともに撃たれて死んでいます。

陣屋の濠は、いまも水をたたえています

飯野陣屋の濠跡は昭和四十二年三月七日に千葉県の史跡となりました。幅五メートルの薬研堀で、いまも水をたたえています。内邸が十二万八千平方メートル、外邸が四万八千平方メートル。正保五年に初代・保科正貞が築いたもので、周防の徳山、越前の敦賀の陣屋と並んで日本三陣屋と呼ばれた、というのが県の説明です。三条塚古墳の周溝を西側の濠に使っており、その古墳のふもとには藩校の明親館が置かれていました。

会津の分家ではなく、保科家の嫡流です

飯野の保科家を会津松平家の分家と書く案内を見かけますが、系譜をたどると逆に近くなります。保科正貞は文禄三年に兄・正光の養子となって跡取りに決まっていましたが、元和三年に徳川秀忠の子である正之が正光の養子に入ったため廃嫡されました。正之が会津へ移るとき、保科家代々の家宝は正貞へ譲られています。正貞が大名になったのは慶安元年、大坂定番に就いて一万石を加えられたときでした。

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