請西藩(貝淵藩)の歩み
請西藩陣屋(真武根陣屋)真武根陣屋は現在の千葉県木更津市にあった一万石(林家)の陣屋跡です。林家は江戸初期から続く旗本の家で、徳川家斉の小姓だった林忠英が加増を重ねて大名になりました。忠英は将軍の寵臣となり「側用人」や「若年寄」などを歴任し徐々に立身、ついに一万石の知行となり大名として列せられました。

この時は木更津の海岸近くの貝淵に陣屋を設けて「貝淵藩」を樹立させました。その後、嘉永三年(1850年)に木更津の高台へと陣屋を移し「請西藩(真武根陣屋)」と呼ばれるようになります。幕末に戊辰戦争が勃発すると薩長を主力とする新政府軍に対抗するべく、藩主「林忠崇」は自ら旧幕府軍「遊撃隊」に参加しました。房総半島の制圧戦や北関東などを転戦した後、仙台にまで辿り着きここで降伏しました。

忠崇の一連の行動により「請西藩」は幕末に存在する藩の中で唯一改易された藩であり、また、最後まで徳川幕府への忠義を貫いた藩としても知られています。

藩主みずから脱藩した請西藩
請西藩は、上総国望陀郡(現在の千葉県木更津市)に置かれた一万石の小藩で、藩主は林家、陣屋を構える大名でした。石高こそ小さいものの、幕末に前代未聞の行動をとった藩として、その名を歴史に刻んでいます。
大名でありながら朝敵となって戦う
戊辰戦争にあたり、若き藩主・林忠崇は、旧幕府方の遊撃隊(人見勝太郎・伊庭八郎ら)とともに戦うことを決意し、みずから脱藩して兵を率い、各地を転戦しました。多くの大名が家を守るために恭順するなか、藩主自身が脱藩して旧幕府方に身を投じたのは、林忠崇ただ一人といわれます。仙台まで戦い抜いたのち降伏し、請西藩は取り潰されました。信念のために大名の地位すら捨てた、幕末屈指の異色の藩です。
請西藩をもっと深く—藩主が自分で脱藩した、ただ一つの藩
幕末に脱藩した武士は数えきれません。だが、脱藩した大名は一人しかいません。上総請西一万石の藩主・林忠崇です。
領地を戦場にしないための脱藩
慶応四年閏四月、江戸を出た旧幕府軍が上総へ入り、請西藩に助力を求めました。断れば領内で戦になります。応じれば藩は朝敵になります。忠崇が選んだのは、そのどちらでもない道でした。藩主の座を自ら降り、脱藩して、一個人として旧幕府軍に加わったのです。藩を残し、領民を巻き込まないための形式でした。二十歳そこそこの決断です。
ついていったのは藩士七十名。合流した相手は、人見勝太郎や伊庭八郎が率いる遊撃隊でした。
箱根、そして東北へ
遊撃隊は房総から相模へ渡り、小田原藩を味方に引き込もうとします。小田原藩は一度は同調し、そして寝返りました。箱根の山崎で起きた戦闘で、伊庭八郎は片腕を失っています。
行き場を失った一隊は海路で北へ向かい、仙台藩まで転戦しました。奥羽越列藩同盟が崩れると、忠崇は仙台で降伏します。一万石の藩主が、江戸から箱根を越え、東北の果てまで戦い続けたことになります。
大名家として、最後の改易
新政府の処分は厳しかったです。藩主自身の脱藩は反逆であるとして、林家は改易されました。江戸時代を通じて数えきれないほど行われた大名の取り潰しの、これが最後の一件になりました。請西藩は地図から消えました。
赦免されたあとの忠崇の人生は、想像を絶します。しばらく農民として暮らし、東京府の下級役人になり、函館の商店で番頭を務め、寺で下働きをしました。元大名です。禄も家も名も失った男が、明治の世を職を変えながら生き抜きました。
明治二十六年、旧藩士たちの嘆願が実って林家の再興が許され、甥が男爵となります。忠崇自身は華族にはなりませんでした。
最後の大名
忠崇が没したのは昭和十六年一月、九十二歳です。薩摩藩も長州藩も会津藩もとうに歴史の中の言葉になり、日本が次の大きな戦争に向かおうとしていた年まで、幕末に自ら脱藩した大名が生きていました。「最後の大名」と呼ばれた所以です。
亡くなる間際、辞世を求められて、忠崇はこう答えたと伝えられます。辞世なら明治元年に詠んだ、いまはもうない、と。七十年以上前、房総を出るときに死ぬ覚悟は済ませてある、という意味でしょう。以後の長い生涯は、この人にとっては余生ですらなかったのかもしれません。
請西藩(貝淵藩)をもっと詳しく
林家の由来—将軍に兎の吸い物を献じた家
林家は小笠原氏の流れを名のる三河以来の譜代の家で、江戸時代には旗本として代々番方(警備や軍事の役)を勤めていました。この家には「献兎賜盃(けんとしはい)」という由緒が伝わります。南北朝時代、徳川家の祖とされる松平有親・親氏の親子が信濃で困っていたとき、林家の祖先・林光政が雪の中で兎を捕らえて吸い物にしてもてなした、という話です。これにちなみ江戸時代には、正月に林家が将軍へ兎の吸い物を献じ、将軍から一番に酒の盃を賜る儀式が行われていたといいます。
藩の成り立ちと石高の上がり下がり
元禄年間に長崎奉行や町奉行を務めた林忠和の代に三千石となった林家は、本文にある林忠英の代に大きく伸びました。忠英は文政五年(1822年)に七千石、文政八年(1825年)に若年寄となって三千石を加えられ、一万石の大名となって貝淵藩が成立します。その後も天保五年(1834年)に三千石、天保十年(1839年)に江戸城修築などの功で五千石を加えられ、一万八千石に達しました。
ところが天保十二年(1841年)一月に家斉が亡くなると、将軍家慶と老中水野忠邦のもとで八千石を取り上げられ、若年寄も辞めさせられ、同年七月には隠居を命じられました。天保十四年(1843年)には印旛沼の堀割工事の手伝いも命じられ、一万石に戻った藩の財政はさらに苦しくなったとされます。
同じ時代の出来事—寺田屋で龍馬を襲わせた伏見奉行
請西藩二代藩主の林忠交は伏見奉行を務め、慶応二年(1866年)一月二十三日、伏見の寺田屋に泊まっていた坂本龍馬を捕らえようとした出来事(寺田屋遭難)を指揮しました。忠交は翌慶応三年(1867年)に伏見奉行在任のまま急死し、嫡男の忠弘が幼かったため、甥の忠崇が家を継ぎます。こうして、のちに自ら脱藩する藩主が誕生しました。
また、嘉永六年(1853年)のペリー来航の際には、幕府から貝淵浦の警備を命じられています。大奥で上臈御年寄を務めた万里小路局は、林家が身元引受人だった縁で引退後に請西村へ移り住み、幕末の林家を支えました。明治十一年(1878年)に亡くなり、木更津市請西の長楽寺に葬られています。
戊辰戦争と、陣屋を焼いての出陣
慶応四年(1868年)、忠崇は遊撃隊に加わって出陣する際、請西の真武根陣屋を自ら焼き払いました。戊辰戦争で城地をすべて取り上げられたのは請西藩と会津藩だけでしたが、会津松平家にはのちに斗南藩三万石が与えられ、華族にも列しています。そのため林家は、江戸時代には大名でありながら明治政府に大名として認められず、廃藩時の大名としての華族にならなかった唯一の家として知られています。
藩の終わりと林家の明治以降
仙台で降伏した忠崇は、江戸の唐津藩邸に幽閉されました。林家は明治二年(1869年)、忠交の子・忠弘を当主とする三百石の東京府士族として残されます。明治二十二年(1889年)の憲法発布にともなう大赦で西郷隆盛の名誉が回復されると、旧藩士たちは林家の復権を求めて動き、明治二十六年(1893年)に忠弘に男爵が授けられました。
請西藩の領地の一部には、明治元年(1868年)に駿河国小島藩の松平(滝脇)家が移され、旧貝淵陣屋を使って桜井藩が置かれました。朝敵として改易された「貝淵藩」の名を避け、隣村の名をとって「桜井藩」と名のったのが実情とみられています。
領地のようす
請西藩の領地は、上総国の望陀郡・市原郡・周淮郡に散らばる村々(今の千葉県木更津市・市原市・君津市のあたり)と、上野国山田郡の一村でした。藩庁のあった請西村や貝淵村は、木更津村から矢那川をはさんだ南側にあります。木更津は五大力船で江戸と結ばれた物資の集まる町でしたが、江戸時代には請西藩の領地ではありませんでした。
この石高で動員できた兵の目安
江戸幕府の慶安二年(1649年)の軍役規定(案)とされるものでは、一万石あたり二百三十五人(騎馬十・鉄砲二十・弓十・槍三十・旗三)とされます。これを単純に当てはめると、幕末の一万石のこの藩はおよそ二百四十人が目安です。ただしこの規定は案のまま正式には出されなかったともいわれ、実際に動員した人数とは異なります。忠崇に従って出陣した藩士はおよそ七十人とされます。
参考:Wikipedia「請西藩」
場所・アクセス・地図
千葉県木更津市請西字間船台1319-21
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