玉取藩の歩み
「堀利重(堀秀治の弟)」は「大坂の陣」で武功を挙げたことから、元和八年(1622年)常陸新治郡に一万石を与えられて「玉取藩」を立藩しました。利重はその後、書院番頭、大番頭、寺社奉行など要職を歴任したため四千石の加増を受けたが、寛永十五年(1638年)に死去しました。
家督は長男の「堀利長」が継いだが、このとき弟の「堀利直」に二千石を分与しています。利長には男児がなかったため、養嗣子として「堀通周」を迎えて、万治元年(1658年)に家督を譲りました。しかし、通周は延宝七年(1679年)十二月に発狂して家臣を殺害したため、幕府の命令により改易され、玉取藩は廃藩となりました。
廃藩のあと—藩主が発狂して取り潰された、そのあとも
玉取は常陸国新治郡、いまの茨城県つくば市玉取です。元和八年(1622年)に堀利重が入って立藩しました。
廃藩の理由が変わっています。延宝七年(1679年)十二月、三代の堀通周が大坂加番として赴任中に「狂気」し、家臣を殺害したため所領を没収されました。
ところが堀家は絶えませんでした。養子相続が許され、旧領のうち三千石を与えられて旗本として存続します。そして玉取村は幕末まで堀家の知行地であり続けました。五十年後の享保十五年(1730年)には、堀家が玉取村に陣屋を置いています。藩は潰れても、同じ家が同じ土地に戻ってきたわけです。
この土地の幕末を語るうえで外せないのが位置関係です。元治元年三月二十七日、藤田小四郎ら六十二名が筑波山で挙兵しました。天狗党の乱です。数日で百五十名、最盛期には千四百名ほどに膨れ上がります。
玉取は筑波山の南麓から南東へ、直線でわずか七〜八キロ。挙兵勢の行動圏のただ中にあたります。天狗党は資金を求めて周辺を回り、六月には真鍋宿—玉取の南東十キロほど—でも掠奪を行っています。
ただし玉取村そのもので何が起きたかは、わかっていません。周辺の小さな旗本領が軍資金の調達先になった可能性はありますが、記録として裏を取れていません。
その天狗党は八月に那珂湊で敗れ、十一月に大子を発って西上し、下仁田・和田峠を経て、十二月に敦賀で加賀藩に投降しました。
玉取陣屋の跡については、遺構や石碑の情報を見つけられませんでした。
「名人久太郎」堀秀政の子
玉取藩の堀利重は、織田信長・豊臣秀吉に仕えた堀秀政の弟です。秀政は若いころから信長の側近として働き、何をやらせても見事にこなすことから「名人久太郎」と呼ばれました。本能寺の変のあとは秀吉について山崎の戦いで明智光秀を破り、近江の佐和山、ついで越前の北ノ庄の城主となります。将来を期待されていましたが、天正十八年(1590)、小田原攻めの陣中で病のため三十八歳で亡くなりました。
家を継いだ兄の秀治は、慶長三年(1598)に上杉景勝の後を受けて越後一国を任されます。しかし秀治も若くして亡くなり、その子・忠俊の代に家臣の争いが起きて、慶長十五年(1610)に越後の堀本家は改易されました。この争いの当事者の一人が、坂戸城主の堀直寄です(坂戸藩)。
本家が消えたあとの弟の家
本家を失ったあと、弟の利重は徳川家に仕えて大坂の陣で手柄を立て、元和八年(1622)に玉取で一万石の大名となりました。のちに書院番頭や寺社奉行といった幕府の要職も務めています。名人久太郎の家は、本家ではなく次男の家として、常陸の小さな藩から江戸時代を歩みはじめたのです。
大名としての玉取の堀家は延宝七年(1679)に終わりますが、旗本として玉取の地に戻り、幕末まで治め続けました。秀政の血筋はほかにも、堀直政の流れの村松藩・須坂藩・椎谷藩など、越後や信濃の堀家として幕末まで残っています。
大久保忠隣の失脚に巻き込まれた藩祖—堀利重と最初の寺社奉行
甥の人質から、秀忠の軍へ
玉取藩を開いた堀利重は、慶長四年(1599年)、甥の堀秀治から人質として江戸へ送られた人です。関ヶ原のときは徳川秀忠の軍にいて、信濃上田城攻めに加わりました。家格は外様です。
妻の縁で、大久保忠隣の失脚に連座
利重の正室は本多康重の娘で、その母は石川家成の娘でした。徳川家の重臣・大久保忠隣の正室も石川家成の娘だったため、慶長十九年(1614年)に忠隣が失脚すると、利重も縁者として連座してしまいます。利重が許されて大名になったのは元和八年(1622年)のことでした。このとき、幼い宇都宮藩主・奥平忠昌の補佐も命じられ、宇都宮に住んでいます。
最初の寺社奉行の一人
寛永十二年(1635年)十一月、幕府に初めて寺社奉行が置かれました。最初の三人は、松平勝隆、安藤重長、そして堀利重です。寛永十五年(1638年)には、京極家が改易された出雲松江城の受け取りに行き、その帰り道の大坂で五十八歳で亡くなりました。三代通周は寛文十一年(1671年)に初めて国元へ行く許しを得ていて、玉取藩が参勤交代をする藩だったことがわかります。
つくばの八坂神社に残る堀家の名
つくば市玉取の一ノ矢八坂神社の本殿は、通周が建てたと伝わります。ただし神社に残る棟札は宝永八年(1711年)のもので、実際の建立はそのころと考えられています。本殿は茨城県の文化財です。
縁組が家を浮かせ、沈めた
堀利重の一生は、江戸のはじめの大名にとって縁組がどれほど重かったかを教えてくれます。妻の母の家がつないだ縁で失脚し、許されたあとは最初の寺社奉行にまでなる。縁で沈み、実力で浮かび上がった人だったと思います。



