小張藩/松平家1万5千石:松平乗政 信濃小諸藩へ移封のため廃藩

小張藩 松平家1万5千石 最後の藩主 松平乗政
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小張藩の歩み

延宝七年(1679年)、「松平乗政」が一万石を領したことから小張藩が立藩されます。乗政は「徳川家綱」の小姓で五千石を領していたが、延宝七年に若年寄に栄進したことから常陸国河内郡や真壁郡などで五千石を加増され大名として諸侯に列しました。

天和元年(1681年)七月、さらに下総国結城郡に五千石を加増されました。しかし翌年、信濃小諸藩への移封が決まり、小張藩は廃藩となりました。

廃藩のあと—幕末の小張

小張は常陸国筑波郡小張、いまの茨城県つくばみらい市小張です。松平乗政が信濃小諸へ移ったあと、この村がどの領主のものだったかを示す資料を、私は見つけられませんでした。幕府領か旗本領だったと思われますが、断定はできません。

分かっているのは、慶応四年(1868年)以降、筑波郡の幕府領・旗本領が常陸知県事の管轄に入り、明治二年に若森県、明治四年十一月に新治県、明治八年に茨城県へと移っていったことです。

小張は「小張駅」とも呼ばれ、布施街道の宿場として機能していました。筑波や谷田部方面への継立て地です。宿場の町並みは、いまの小張交差点の南側にあたります。

この土地でいちばん有名なのは「小張松下流綱火」でしょう。空中に張った綱でからくり人形を操りながら仕掛花火を上げる芸能で、国の重要無形民俗文化財に指定されています。毎年八月二十四日、小張愛宕神社で奉納されます。流派名の「松下流」は、小張藩の最初の藩主・松下重綱にちなむと伝わります。

小張藩は、二度ありました

小張に藩が置かれたのは二度です。一度目は慶長八年(1603年)、松下重綱が一万六千石で入ったときで、居城の石塁を無許可で築いたための懲罰的な移封だったと伝わります。大坂の陣の功で二万八百石に加増され、元和九年(1623年)に下野烏山へ移って廃藩。この廃藩を元和二年(1616年)とする資料もあります。

二度目が延宝七年(1679年)の松平乗政で、こちらは一万石です。二つの藩のあいだには五十六年から六十年ほどの空白があり、連続性はありません。同じ地名の藩が二度立って二度消えた、という土地です。

秀吉の最初の主人の、その子

松下重綱は松下之綱の次男です。之綱は秀吉が少年期に仕えた主君として知られる人で、遠江久野一万六千石を領しました。重綱は天正七年生まれ、慶長三年に家督を継ぎ、関ヶ原では東軍。小張から烏山をへて、寛永四年に陸奥二本松五万石へ加増移封され、同年十月二日に四十九歳で亡くなっています。二本松藩の初代です。

松平乗政のほうは大給松平家の分家の祖にあたります。寛永十四年、美濃岩村藩主 松平乗寿の次男として生まれ、慶安五年に徳川家綱の御小姓、寛文二年に小姓組番頭、延宝七年に若年寄となって一万石の大名になりました。天和元年に下総結城郡で五千石を加増され、天和二年に奏者番となって信濃小諸へ(計二万石)。出世のたびに石高が増え、最後に土地ごと移っていった人です。

陣屋を置いたのは伊奈忠治

小張陣屋は寛永二年(1625年)、伊奈忠治が鬼怒川の河川工事と谷原領開拓の拠点として設けたと伝わります。松平乗政の藩庁より半世紀早い話です。ただし陣屋の所在地や遺構はわかっていません。

綱火の「松下流」

綱火が国の重要無形民俗文化財になったのは昭和五十一年五月四日です。指定名称は「綱火」で、小張松下流と高岡流が一括で指定されています。県指定は昭和三十年。地上五間から八間に張り巡らせた綱でからくり人形を操り、仕掛花火と太鼓・鼓・笛の囃子を合わせて人形芝居を演じるもので、演目は「三番叟」「花咲爺」「安珍清姫」など。奉納は小張愛宕神社が八月二十四日、高岡愛宕神社が八月二十三日です。

「松下流」の由来については、つくばみらい市の広報が説明しています。小張城主 松下石見守重綱が戦勝祝いや犠牲者の供養のために陣中で行ったものと伝え、家臣の大橋吉左衛門へ火薬の調合法を伝授して「松下流」と名づけたというものです。茨城県教育委員会も同じ趣旨を記しています。つまり公的な説明は松下重綱に結びつけていますが、いずれも「伝えられている」という形の記述です。

林述斎の先祖の家—小張藩の松平乗政と伊奈氏の陣屋

小張城の跡に置かれた陣屋

小張(いまの茨城県つくばみらい市)には、戦国時代に岡見氏の家臣が守る小張城がありました。天正十四年(1586年)、佐竹氏の後ろ盾を得た多賀谷氏に攻められて落城したと伝わります。寛永二年(1625年)、関東郡代の伊奈忠治がこの城の跡に陣屋を置き、のちに松平乗政が立藩したときもこの陣屋を使ったとされます。城の中心は小張小学校のあたりと考えられ、鹿島神社と愛宕神社に土塁が残っています。

谷原三万石と鬼怒川・小貝川

伊奈忠治・忠克父子の治水で一帯の沼地の開発が進み、「谷原三万石」と呼ばれる米どころになりました。忠治は寛永六年から七年にかけて、鬼怒川と小貝川を分ける大工事を行っています。小張の陣屋は、関東の川の流れを変えた伊奈氏の拠点の一つでした(伊奈氏の赤山陣屋については鳩ヶ谷藩のページもご覧ください)。

松平乗政と小諸

小張藩主・松平乗政は寛永十四年(1637年)生まれで、大給松平家の松平乗寿の子です。家光・綱吉に仕え、天和二年(1682年)に信濃小諸へ移りました。小諸では十七か条の領内法度を定め、城内に菩提寺を建て、新田開発も進めましたが、移ってわずか二年で亡くなりました。家格は譜代です。

岩村藩、そして林述斎

乗政の子・乗紀は元禄十五年(1702年)に美濃岩村へ移りました。岩村は祖父の乗寿がかつて治めた土地で、一族が元の領地に戻ったことになります。この岩村藩主家から、林家の養子に入って昌平黌の大学頭となった林述斎が出ました。小張の小さな藩の血筋が、江戸の学問の中心へとつながっていったのです。

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