常陸北条藩/堀田家1万3千石:堀田正英 継嗣届け出不備により改易

常陸北条藩 堀田家1万3千石 最後の藩主 堀田正英
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常陸北条藩の歩み

下総国佐倉藩主「堀田正盛」の四男「堀田正英」は、父が将軍に殉死した後その遺領のうち五千石を分与されました。その後、堀田正英は4代将軍・徳川家綱に仕え、御小姓組番頭、書院番頭、大番頭と順に出世しました。延宝八年(1680年)には綱吉の世子・徳松の守役となって三千石を加えられています。

天和元年(1681年)に若年寄となり、翌天和二年(1682年)にさらに五千石を加えられて、あわせて一万三千石の大名となり常陸北条藩を開きました。正英はそのあとも奏者番などを務め、元禄元年(1688年)に亡くなりました。

正英には長男の正親、次男の正矩、三男の正章がいました。ところが、正英が生きているうちに幕府へ出していた跡継ぎの届けには、正矩と正章のことは書かれていたのに、肝心の長男・正親のことがなぜか書かれていませんでした。そのため正親は跡継ぎと認められず、届けの不備を理由に家は取りつぶされてしまいます。書類一枚の書き漏れで大名家が消えた、珍しい例です。

堀田家の一万三千石のうち八千石は幕府に取り上げられましたが、三千石を正矩が、二千石を正章が受け継ぐことを許され、二人はそれぞれ旗本として家を残しました。

二度立った北条藩と、届出一つで消えた家

常陸北条の地には、二度にわたって藩が置かれました。最初は慶長十二年(1607年)、佐久間勝之が三千石の加増で一万石となって大名に列したときです。二度目が堀田正英で、天和元年(1681年)に若年寄となり、翌年の加増で一万三千石の大名として北条藩を立てました。

その正英が元禄元年(1688年)に没したとき、幕府に出してあった家督相続願いには嫡男の正親の名がなく、次男の正矩と三男の正章だけが記されていました。書類の不備ひとつで正親は世子と認められず、家は改易となります。一万三千石のうち八千石は収公されて幕府領となり、三千石を正矩が、二千石を正章が旗本として継ぎました。

幕末の北条は土浦藩領

北条の支配は細かく移り変わりました。天領、佐久間領、春日局の化粧料としての天領、堀田正盛領、佐倉藩領、そして北条藩領。正英の死で天領に戻ったあと、元禄十一年(1698年)に土浦藩領へ編入され、そのまま廃藩置県まで続きます。つまり幕末の北条は、土屋家九万五千石の領内でした。

北条陣屋の跡は、つくば市北条の内町にあたります。堀田氏のあと土浦藩も陣屋を置きましたが、はっきりした遺構は確認されておらず、案内板もありません。町の背後の山にある多気城は常陸平氏ゆかりの城ですが、現存する大規模な遺構は戦国期のもので、陣屋とは時代も場所も別になります。

筑波山の門前町・北条

北条は、筑波山への参詣路である「つくば道」の起点にあたる町です。この道はもともと徳川家光が筑波山の寺院を建てるための資材を運ぶために開いたもので、のちに登山道・参詣道として使われました。昭和六十一年に日本の道百選に選ばれています。北条仲町には高さ三メートルを超える道標が立ち、寛政十年(1798年)に建て直されたものです。

いまの町並みの骨格をつくったのは、実は堀田氏でした。散らばっていた民家を街道沿いに集めたことで、三つの町が在郷町として発達したと伝わります。町には旧醤油醸造商の宮本家住宅が残っており、弘化四年(1847年)ごろに建てられた八棟が国の登録有形文化財です。幕末の商家をいまも見られる町といえます。

天狗党が挙兵した山の膝元で

元治元年(1864年)三月二十七日、藤田小四郎ら六十二人が筑波山で挙兵しました。挙兵の場所は筑波山中腹の中禅寺だったと伝えられます。総帥には水戸町奉行の田丸稲之衛門が担ぎ出され、勢力は数日で百五十人を超え、最盛期には千四百人ほどに膨れ上がりました。

一行は四月に日光をめざして拒まれ、太平山に宿陣したのち五月末に筑波へ戻ります。この間、田中愿蔵の別動隊が栃木宿を焼き、六月二十一日には土浦藩領の真鍋宿で略奪を働きました。六月に幕府が追討令を出すと、七月七日から諸藩連合軍との戦闘が始まり、筑波勢は下妻の多宝院で夜襲をかけて諸藩軍を敗走させています。多宝院はこのとき幕府方の本陣が置かれていたため焼き討ちに遭い、伽藍と古文書を失いました。事件の全体像は天狗党の乱とは何だったのかでたどっています。

なお、挙兵の場となった筑波山知足院中禅寺は、明治元年の神仏分離令で廃寺となりました。本尊の千手観音像は東京の護国寺へ移されて守られ、昭和三十六年に護国寺別院の大御堂として現在地に再建されています。北条が天狗党の駐屯地になったかどうかは資料で確認できませんが、この町が挙兵の山の膝元にあったことは間違いありません。

徳松の守役と、つくば道の起点

堀田正英という人

堀田正英は寛永15年(1638)生まれで、寛永18年に家光の小姓となりました。延宝8年(1680)には綱吉の世子・徳松の守役となって3千石を加増され、天和2年(1682)に5千石を加えられて大名になったとされます。貞享2年(1685)からは奏者番を務めました。届け出から外された長男の正親は、福島藩主の堀田正仲のもとへ預けられたといいます。

前の藩主・佐久間勝之

北条の前の藩主・佐久間勝之は江戸城に詰めきりの定府大名で、大坂の陣の手柄で信濃長沼へ移ったとされます。

北条の町とつくば道

つくば市北条の資料によると、つくば道は寛永3年(1626)に家光が筑波山中禅寺を建て直すための資材運搬路として整えたのが始まりで、北条仲町が起点です。陣屋は内町に置かれ、家臣が住むと商人や定期市が生まれました。北条の通りは3か所でカギの手に曲がっており、今の店蔵の町並みは文化8年(1811)の大火の後にできたものです。

考察:将軍の世子を育てた家

正英が守役を務めた徳松は、幼くして亡くなりました。もし徳松が将軍になっていれば、北条藩の家は大きく出世していたかもしれません。歴史の「もしも」を考えさせる小藩です。

場所・アクセス・地図

参考資料:Wikipedia日本語版「常陸北条藩」ほか、自治体・博物館の公開資料。複数の資料を読み比べ、運営者の言葉でまとめています。

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