中岡慎太郎とは何をした人物か—大庄屋の子が陸援隊長に。武市道場から脱藩、薩長和解と薩土密約、近江屋での最期とゆかりの地

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中岡慎太郎(なかおか しんたろう)は、土佐の山あいの村で大庄屋の家に生まれ、脱藩して長州に身を寄せ、坂本龍馬とともに薩摩と長州の和解に奔走した人物です。慶応三年には京都で陸援隊を組織して隊長となりましたが、同じ年の十一月、近江屋で龍馬とともに襲われ、二日後に亡くなりました。

土佐藩の身分でいえば、中岡の家は武士ではなく「庄屋」です。上士・郷士のどちらでもない立場から、なぜ討幕の最前線に立つことになったのか。生まれと家、脱藩、長州での日々、薩長と薩土をつないだ仕事、陸援隊、近江屋の最期、ゆかりの地の順にたどります。

目次

中岡慎太郎とは—先に答え

生没天保九年(1838年)四月十三日、土佐国安芸郡北川郷柏木村に生まれる。慶応三年(1867年)十一月十七日、京都で死去。享年三十
身分武士ではなく庄屋。北川郷の大庄屋・中岡小伝次の長男で、自身も大庄屋見習いを務めた
変名石川清之助、大山彦太郎など
幕末に何をした武市半平太の道場に学び、土佐勤王党に加盟。文久三年に脱藩して長州へ。禁門の変に忠勇隊として加わり負傷
薩長・薩土龍馬とともに薩長の和解に奔走。慶応三年五月には乾(板垣)退助と西郷隆盛を引き合わせ、薩土の討幕の約束を仲介
陸援隊慶応三年七月、京都白川の土佐藩邸を拠点に結成し隊長となる
最期慶応三年十一月十五日夜、近江屋で龍馬とともに襲われ、十七日に死去
墓京都霊山護国神社の墓地。坂本龍馬の墓と並ぶ

生まれと家—武士ではない「大庄屋」の跡取り

中岡慎太郎の肖像写真
中岡慎太郎(出典:Wikimedia Commons、パブリックドメイン)

中岡慎太郎は天保九年(1838年)四月十三日、土佐国安芸郡北川郷柏木村(いまの高知県安芸郡北川村柏木)に生まれました。父は北川郷の大庄屋を務める中岡小伝次で、慎太郎はその長男です。

庄屋は村をまとめる役で、身分は武士ではありません。大庄屋はいくつもの村を束ねる立場で、中岡家は北川郷の村々を預かっていました。慎太郎は安政四年(1857年)から大庄屋見習いとして父を助け、村の仕事に携わっています。事典によっては父を「郷士」と書くものもありますが、多くの事典は「大庄屋」としています。

土佐藩の身分でいえば、中岡は上士・白札・郷士のどの段にも入らない、藩の家臣団の外側の人です。土佐の身分の段と、ほかの人物がどの家に生まれたかは土佐藩の有名人を身分で分けるとにまとめています。

武市道場から土佐勤王党へ

安政元年(1854年)、慎太郎は高知に出て間崎哲馬(滄浪)に学問を学び、翌年には武市半平太の道場に入門しました。同じ道場には岡田以蔵も通っていました(岡田以蔵とは)。

文久元年(1861年)、武市が土佐勤王党を結成すると、慎太郎も加盟します。勤王党の顔ぶれは郷士がもっとも多く、その次に多かったのが庄屋層でした。土佐では天保期から庄屋どうしの結びつき(庄屋同盟)があり、『日本大百科全書』はこれが「後の勤王運動の温床」になったと書いています。村を預かる庄屋の家に生まれた慎太郎が勤王党に加わったのは、こうした土佐の流れのなかにありました。

脱藩して長州へ—石川清之助の名で

文久三年(1863年)、京都で八月十八日の政変が起こり、尊王攘夷派が京を追われると、土佐でも勤王党への締めつけが始まりました。武市は投獄され、慎太郎は脱藩して長州へ向かいます。以後、石川清之助、大山彦太郎などの変名を使って動きました。

長州では、京を追われた三条実美ら公家たちのもとに出入りし、元治元年(1864年)七月の禁門の変には、浪士を集めた忠勇隊の一員として加わり、負傷しています。その後、三条ら五卿が筑前の太宰府へ移ることになったときには、長州側の立場で福岡藩や薩摩藩との交渉にあたり、このとき西郷隆盛と初めて顔を合わせたとされます。

薩長と薩土をつなぐ

薩摩と長州の和解

禁門の変で敵どうしになった薩摩と長州を和解させるため、慎太郎は坂本龍馬とともに両藩のあいだを行き来しました。慶応元年(1865年)閏五月には下関で西郷と桂小五郎(木戸孝允)を会わせようとしましたが、西郷が直前に来なかったため流れています。翌慶応二年正月の薩長同盟の締結の場に慎太郎はいませんでしたが、そこへ至るまでの下地をつくった一人です。

薩土の討幕の約束を仲介

慶応三年(1867年)五月二十一日、慎太郎は京都で、土佐の乾(のちの板垣)退助・谷干城らと、薩摩の西郷隆盛・小松帯刀らを引き合わせ、武力で幕府を倒すときは土佐も兵を出すという約束を結ばせました。薩土密約と呼ばれます(板垣退助とは)。翌六月には、後藤象二郎らが進める大政奉還の路線で薩摩と土佐が結ぶ薩土盟約にも、龍馬とともに関わっています(後藤象二郎とは)。

庄屋の子であり脱藩者でもある慎太郎は、藩の正式な立場をもっていません。それでも、上士の乾と、薩摩の家老格の小松・西郷を同じ席につかせることができました。藩の外にいたからこそ、藩と藩のあいだに立てたともいえます。

陸援隊—京都白川の土佐藩邸

同じ慶応三年の七月、慎太郎は京都白川の土佐藩邸を拠点に陸援隊を組織し、隊長になりました。龍馬の海援隊が海の隊なら、陸援隊は陸の隊です。隊員の数は事典によって五十人とも七十人ほどとも書かれ、のちの田中光顕、香川敬三らが加わっていました。慎太郎の死後、隊は田中光顕らに率いられ、紀州の高野山で挙兵しています。

近江屋で斃れる

坂本龍馬・中岡慎太郎遭難之地の碑(近江屋跡)
京都・近江屋跡の「坂本龍馬・中岡慎太郎遭難之地」の碑(撮影:幕末歴史ガイド)

慶応三年十一月十五日の夜、慎太郎は京都河原町の近江屋に龍馬を訪ねていたところを刺客に襲われました。龍馬はその夜のうちに亡くなり、慎太郎は深い傷を負いながら二日を生き、十七日に息を引き取りました。三十歳でした(坂本龍馬はなぜ暗殺されたのか)。

襲撃の様子を慎太郎が語ったという話は、駆けつけた谷干城らの証言として伝わっています。ただし、刺客が「こなくそ」と言ったという話などは、明治になってからの証言と食い違う点があり、どこまで当時の言葉かははっきりしません。日本人名大辞典は、慎太郎の最期の言葉として「天下の大事はひとえに岩倉公が負荷せられんことを願うのみ」を伝えています。

庄屋の子だったことの意味

上士の乾退助や後藤象二郎は、藩の中にいて藩を動かすことができました。郷士の龍馬は脱藩して外から動きました。そして中岡は、そもそも武士の家臣団の外に生まれています。藩に属して出世する道がはじめからない立場だったからこそ、脱藩にためらいが少なく、長州・薩摩・土佐の上士と、身分をこえて話をつなぐ役に回れたのかもしれません。その代わり、龍馬や中岡のように藩の外で動いた人の多くは、明治を見ることができませんでした。

中岡慎太郎ゆかりの地

中岡慎太郎館と生家(高知県北川村)

北川村柏木に中岡慎太郎館があり、隣には復元された生家が建っています。生家は没後百年にあたる昭和四十二年(1967年)に復元されたものです。館の敷地には慎太郎の像も立っています。

室戸岬の銅像(高知県室戸市)

室戸岬に立つ慎太郎の銅像は、昭和十年(1935年)、本山白雲の作です。太平洋を見つめて立っています。

近江屋跡(京都市中京区)

河原町通の近江屋跡には石碑が立っています。【現地取材】坂本龍馬・中岡慎太郎 遭難の地(近江屋跡)で紹介しています。

京都霊山護国神社の墓(京都市東山区)

墓は東山の霊山墓地にあり、坂本龍馬の墓と並んでいます。

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参考資料

  • コトバンク「中岡慎太郎」(日本大百科全書・世界大百科事典・日本人名大辞典ほか)
  • コトバンク「陸援隊」
  • コトバンク「土佐藩」
  • 国立国会図書館「近代日本人の肖像」中岡慎太郎
  • 高知県 報道資料(中岡慎太郎館)
  • 京都市観光協会「東山界わい」
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