常陸宍戸藩の歩み
元々は「秋田実季」が五万石で入封したが陸奥三春藩へ転封のため、水戸藩の支藩として宍戸藩が立藩されました。8代藩主「松平頼位」は水戸藩主「徳川斉昭」に同調して、軍事改革などを積極的に行なっています。「天狗党の乱」では、9代藩主「松平頼徳」が幕命により鎮圧に当たったが失敗に終わり、且つ、天狗党に同情的であったことを幕府から追及され、元治元年(1864年)十月、切腹を命じられ宍戸藩は改易されました。

その後、宍戸の地は幕府の支配する幕府領となったが、慶応四年(1868年)二月、朝廷の計らいにより先代「松平頼位」を当主として再び立藩しました。明治二年(1869年)、版籍奉還で頼位は知藩事となり、明治四年(1871年)の廃藩置県によって廃藩し宍戸県となりました。
本家・水戸藩との関係
宍戸藩は、常陸にあった御三家・水戸藩の支藩です。水戸徳川家の分家が一万石を領しました。
幕末の宍戸藩は、水戸藩を揺るがした激しい内乱・天狗党の乱に巻き込まれます。藩主・松平頼徳は、乱の鎮圧に向かうも失敗し、かえって責任を問われて切腹させられ、藩は改易となりました。尊皇の水戸に連なる支藩が味わった、幕末の悲劇でした。
水戸徳川家から分かれた一万石
宍戸の地には、慶長七年(1602年)に佐竹氏の秋田転封のあと秋田実季が五万石で入り、宍戸城を築いています。正保二年(1645年)に秋田俊季が三春藩へ移って幕府領となり、天和二年(1682年)、水戸藩初代の徳川頼房の七男である松平頼雄が一万石を分けられて、宍戸城跡に陣屋を置きました。頼雄が従五位下・大炊頭を称し、以後の当主も代々大炊頭を名乗ったことから、この家は松平大炊頭家と呼ばれます。藩主は江戸に常住する定府で、宍戸は陣屋が支配にあたりました。
松平頼徳の切腹と、天狗党の乱
八代藩主の松平頼位は、水戸藩主の徳川斉昭に同調して軍事改革を進めた人でした。その長男が九代藩主の松平頼徳です。元治元年(1864年)、水戸藩内が天狗党と諸生党に割れて収拾がつかなくなると、頼徳は幕命を受けて鎮定に向かいますが、諸生党に城への入場を拒まれ、やむなく天狗党側の勢力と行動をともにする形になりました。
この経緯が幕府から天狗党に同情的であると追及され、頼徳は元治元年十月五日、水戸藩の支族である松平頼遵の屋敷で切腹を命じられます。宍戸藩は改易となり、父の頼位も連座して拘禁されました。事件の全体像は天狗党の乱とは何だったのかで詳しくたどっています。
頼徳の墓は、水戸徳川家の墓所である常陸太田市の瑞龍山にあります。のちに従三位を追贈されました。
宍戸藩の再興と、その後
宍戸藩は幕末に復活します。慶応四年(1868年)二月、新政府から藩の復旧を命じられ、隠居していた父の松平頼位が十代藩主として再び家を継ぎました。石高は立藩以来の一万石のままです。
明治二年(1869年)に版籍奉還が受理され、頼位は同年五月に宍戸藩知事となります。明治四年(1871年)の廃藩置県で免官となり、宍戸県が置かれました。頼位が次男の松平頼安へ家督を譲って隠居するのは明治十三年のことで、頼安は藩主を務めた人ではありません。
宍戸陣屋跡を訪ねる
宍戸陣屋の跡は茨城県笠間市平町にあり、水戸線の宍戸駅から南へ歩いて数分の場所です。市街化が進んで遺構はわずかですが、土塁の一部が残り、その上に末廣稲荷神社が鎮座しています。この土塁は「宍戸城址土塁」として笠間市の文化財に指定されており、長さ三十メートル、高さ二・一メートル、幅十一・七メートルを測ります。
陣屋の表門は「旧宍戸城表門」として茨城県の文化財に指定され、廃城の際に笠間市の岩間地区へ移築されて民家の門となりました。松平家の三つ葵の家紋がついた長屋門です。藩そのものは消えても、門と土塁が宍戸に一万石があったことを今に伝えています。
宍戸藩をもっと詳しく
最初の宍戸藩主・秋田実季
宍戸に最初に藩を開いた秋田実季は、出羽の戦国大名・安東愛季の子です。天正十五年(1587年)に父が病死すると十二歳で跡を継ぎ、これに不満を持った従兄の安東通季が起こした反乱(湊合戦)を、檜山城に立てこもって苦しい戦いの末に鎮めました。豊臣秀吉の小田原攻めに加わり、出羽の秋田で五万石余りを認められています。
関ヶ原の戦いでは東軍に付きましたが、戦後、山形の最上義光から「裏では敵方と通じていた」と家康に訴えられます。疑いは晴らしたものの、慶長七年(1602年)、佐竹氏が秋田へ移されるのと入れ替わりに常陸の宍戸へ移されました。寛永七年(1630年)、実季は罪を得て伊勢の朝熊に流され、子の俊季が跡を継ぎます。正保二年(1645年)に俊季が陸奥の三春へ移ると、宍戸は幕府領・水戸藩領となりました。
本家・水戸徳川家とのつながり
天和二年(1682年)、水戸藩主の徳川光圀が弟の松平頼雄に一万石を分け与えて、宍戸藩を立てさせました。宍戸松平家は水戸徳川家の「御連枝」(分家)にあたる親藩です。家の跡継ぎにも本家から人が入っており、五代藩主の頼救は水戸藩主・徳川宗翰の六男、七代藩主の頼筠は水戸藩主・徳川治紀の四男でした。幕末の八代頼位も頼救の四男で、宍戸の家は水戸の家と血のつながりが濃い家でした。
定府の藩の領地と暮らし
幕末の領地は、常陸国茨城郡のうち二十七か村です。藩主は参勤交代をせず江戸に住み続ける定府だったため、宍戸での政務は陣屋を置いて年貢を集めることにほぼ限られ、実質的な藩政は本家の水戸藩が行っていたとされます。そのため宍戸で目立った治績は伝わっていません。
六代藩主・頼敬のころからは、財政が苦しくなり、天災で農村も荒れていきました。藩は北陸などから逃げてきた農民を受け入れて村に住まわせようとしましたが、徹底せずに失敗し、天保年間(1830〜1844年)には困りはてた農民が本家の水戸藩に救いを求めて直訴する(越訴)事態も起きています。
改易から再興まで
元治元年(1864年)に頼徳が切腹して宍戸藩が改易されると、宍戸は幕府の関東取締出役五名が支配する幕府領となりました。慶応四年(1868年)二月の再興までの三年あまり、藩は地図から消えていたことになります。明治四年(1871年)の廃藩置県で置かれた宍戸県は、その後茨城県に入りました。
藩主家の明治以降
明治十三年(1880年)に家督を継いだ松平頼安(頼位の二男)は、明治十七年(1884年)七月八日に子爵を授けられました。頼安は神職となり、上野東照宮・芝大神宮・亀戸天神社の社司を務めています。二十五歳上の兄が、切腹した九代藩主の頼徳でした。また頼安の妹の高は、作家・三島由紀夫の曽祖母にあたります。
この石高で動員できた兵の目安
江戸幕府の慶安二年(1649年)の軍役規定(案)とされるものでは、一万石あたり二百三十五人(騎馬十・鉄砲二十・弓十・槍三十・旗三)とされます。これを単純に当てはめると、一万石のこの藩はおよそ二百四十人が目安です。ただしこの規定は案のまま正式には出されなかったともいわれ、実際に動員した人数とは異なります。
参考:Wikipedia「常陸宍戸藩」「秋田実季」「松平頼安」



