岡内俊太郎 宛
| 原文 |
| 皆様御集ニ相成候得バ、中島作太郎方迄つかい御こし被遣度奉願候。以上。十九日龍楳太郎俊太郎先生左右 |
| 現代文 |
| 皆さまがお集まりになりましたら、中島作太郎(海援隊士)方まで使いを寄こして下さい。19日龍楳太郎(龍馬変名)俊太郎先生(岡内俊太郎:土佐藩士) |
出典:原文は宮地佐一郎編『龍馬の手紙』(講談社学術文庫)によります。現代文は、運営者がこの原文をもとに独自に訳したもので、解説も運営者が書いています。
この手紙について
「皆さまが集まっているので、中島作太郎の所まで使いを寄こしてほしい」という、仲間の招集にまつわる短い連絡です。日付は「十九日」のみで年は不明です。龍馬が海援隊の同志たちと頻繁に連絡を取り合っていた慶応年間の一場面とみられます。せわしなく人を集めて動く、実務家・龍馬の姿が伝わります。
宛先「岡内俊太郎」とは

岡内俊太郎は土佐藩士で、龍馬の身近で連絡役をつとめた人物です。文中の中島作太郎は海援隊士の中島信行のことで、のちに初代衆議院議長や神奈川県知事を歴任しました。龍馬の周りには、こうした後に近代日本を担う若者が集まっていました。
この手紙が書かれたころ
海援隊という組織を率い、多くの隊士や協力者と連絡を取りながら動いていた時期です。人を集め、段取りを整えることそのものが、龍馬の仕事の中心にありました。慶応の政局は日ごとに動き、志士たちは頻繁な連絡と会合で情勢に対応していました。龍馬の周辺も、その渦の一部でした。土佐藩は後藤象二郎を中心に、大政奉還へ向けた独自の路線を模索していました。海援隊はその動きを支える人材の供給源でもありました。
慶応三年八月、イカルス号事件のさなかの一筆
上で「年は不明」と書きましたが、宮地佐一郎編『龍馬の手紙』はこの一通を慶応三年八月十九日のものとしています。書簡に書かれているのは「十九日」だけですから、年と月は宮地の比定です。そのとおりなら、龍馬は長崎にいて、七月に丸山で英国水兵が斬られたイカルス号事件の後始末に追われていた時期になります。疑いをかけられたのは海援隊の佐々木 栄や菅野覚兵衛で、隊は英国公使パークスから名指しで責められていました。
宛名の岡内 俊太郎は、この四日後の二十三日にも龍馬から手紙を受け取っていて、そちらでは龍馬が体調を崩して弱っています。人を呼び集めて段取りをつけ、自分は寝込む—そういう数日だったようです。文中の中島 作太郎の家が寄り合いの場になっていたことも分かります。署名の「龍楳太郎」は、龍馬の変名・才谷梅太郎を縮めたものです。
同じころの世の中—「ええじゃないか」
東海道筋では 慶応三年(1867)の夏の終わりから、東海地方を中心に、空から伊勢神宮などのお札が降ってきたと言って人々が「ええじゃないか」とはやしながら踊り歩く騒ぎが始まりました。騒ぎは秋にかけて東海道から京都・大坂、さらに西国へと広がり、幕府の政治が行き詰まるなかでの、民衆の不安と解放感の表れとも言われます。
龍馬のまわりでは 同じころ、長崎の龍馬はイカルス号事件の取り調べや土佐藩との連絡に追われていました。宛名の岡内俊太郎は、その連絡役の一人です。世の中の騒ぎをよそに、龍馬たちは政権の行方を左右する仕事を続けていました。
坂本龍馬の手紙139通(現代翻訳文)一覧
岡内あて三通と、佐佐木あて十二通が日付でつながる
宛先ごとに日付を並べてみると、面白いことが見えてきます。
岡内俊太郎あての手紙は慶応三年八月十九日、二十一日、二十三日の三通。そして佐佐木高行あての手紙は八月二十四日から九月十八日まで十二通あります。岡内あてが途切れたところから、佐佐木あてが始まっているのです。
東京大学史料編纂所の『保古飛呂比』の解題によりますと、佐佐木高行は慶応三年に大目付へ抜擢され、長崎での外国人傷害事件の対応にあたって、「坂本龍馬等海援隊員との連絡」を担当していました。龍馬の手紙が八月下旬から佐佐木に集中するのは、この役目が理由です。
つまりこの一通は、長崎でイカルス号事件の折衝が藩の正式な系統へ移っていく、その直前に書かれています。「皆様が集まったら使いを寄こしてほしい」という一行だけの連絡ですが、置かれている位置はそういう場所です。
岡内俊太郎という名について、ひとつ注意
この人を調べていて行き当たったことを書いておきます。
公の機関が出している資料のなかに、「岡内俊太郎」という独立した人物の項目は見つかりませんでした。高知県の偉人一覧、高知県立坂本龍馬記念館のゆかりの人物、国立国会図書館のレファレンス協同データベース—いずれにも名がありません。
一方で、岡内重俊という土佐の司法官については記録が残っています。国立公文書館アジア歴史資料センターの特別展「岩倉使節団」は、司法省の派遣について「司法省理事官の佐々木高行、その随行の岡内重俊」と記しています。慶応三年の長崎で佐佐木の下にいた岡内と、明治四年に佐佐木の随行として渡欧した岡内重俊は、同じ人を指しているのではないか—そう考えられます。人名事典類は岡内重俊の通称を「俊太郎」としています。
兄弟とする説も見かけますが、公の資料で確認できません。断定はせずに、同じ人の可能性が高いという形で書いておきます。



