お登勢 宛
| 原文 |
| 御別申候より急ニ兵庫ニ下り、同二日の夕七ツ過ギ、土佐の国すさキと申港に付居申候。先々ぶじ御よろこび。是より近日長崎へ出申候て、又急々上京仕候。御まち可被遣候。かしこ。八月五日おとせさまうめより御本え |
| 現代文 |
| お別れしてから急に兵庫に向かい、同2日の夕方七ツ過ぎ(午後4時過ぎ)に土佐の国の須崎という港に着きました。まずまずご無事ですのでお喜び下さい。これから長崎へ向かい、また急いで京都へ向かいます。お待ち下さいませ。8月5日お登勢様うめより(龍馬変名) |
出典:原文は宮地佐一郎編『龍馬の手紙』(講談社学術文庫)によります。現代文は、運営者がこの原文をもとに独自に訳したもので、解説も運営者が書いています。
この手紙について
「お別れしてから兵庫へ下り、二日の夕方に土佐の須崎港へ着きました。まず無事なので安心してほしい。これから長崎へ向かい、また急いで上京する」と、旅程と無事を知らせる手紙です。八月五日付、「うめ(才谷梅太郎)」の署名。追われる身で各地を巡る龍馬が、恩人の女将に近況を伝える一通です。
宛先「お登勢」とは

お登勢は京都伏見の旅館・寺田屋の女将で、龍馬とお龍をかくまった恩人です。龍馬にとって、旅先から近況を知らせたくなる身内のような存在でした。
この手紙が書かれたころ
兵庫・土佐・長崎・京都と、海路で各地を駆け巡る多忙な日々のなかにありました。無事を知らせる筆づかいに、恩人への細やかな気遣いがにじみます。志士たちは海路で各地を移動し、目まぐるしく変わる情勢に対応していました。龍馬の旅程は、まさにその機動力を体現しています。須崎は土佐の港です。脱藩の身で郷里の港に立ち寄る龍馬の胸中には、複雑な思いもあったことでしょう。
須崎に着いたのは、英国公使を迎えるためでした
宮地佐一郎編『龍馬の手紙』は、この一通を慶応三年八月五日のものとしています。「同二日の夕七ツ過ギ、土佐の国すさキと申港に付居申候」—八月二日の夕方に土佐の須崎へ着いた、という知らせです。この日付には、手紙に書かれていない事情があります。七月に長崎で英国水兵が斬られたイカルス号事件で、海援隊が疑われ、英国公使パークスが土佐へ乗り込んでくることになっていました。龍馬は薩摩の船に乗って一足先に須崎へ入り、パークスの船は八月六日に着いています。つまりこの手紙は、英国との談判を目前にした龍馬が、伏見の寺田屋のお登勢に無事を知らせたものでした。
文面にはそんな緊張はまったく出てきません。「先々ぶじ御よろこび」とだけ書いて、近いうちに長崎へ出て、また急いで京へ上るから待っていてほしいと結んでいます。署名は「うめ」、才谷梅太郎の梅です。疑いをかけられた隊士のことは佐々木 栄のページに書きました。
同じころの京都—新選組と伏見
京都では 慶応三年(1867)六月、新選組の隊士たちは幕府の家臣に取り立てられ、局長の近藤勇は見廻組与頭格という旗本の身分を得ました。屯所も同じ月に西本願寺から不動堂村へ移っています。一方、三月には伊東甲子太郎らが新選組を離れて御陵衛士となっており、隊の内部にも亀裂が生まれていました(新選組の年表)。
伏見のお登勢 お登勢の寺田屋がある伏見は、幕府の伏見奉行所が置かれた町です。前年に龍馬を襲ったのも、この奉行所の捕り方でした。幕府の取り締まりが強まるなかで、龍馬はお登勢を通じて京都・伏見の様子を探り、仲間との連絡を保っていました。
慶応三年八月はじめ、龍馬とお登勢、土佐藩
寺田屋の女将・お登勢
お登勢は、伏見の船宿・寺田屋の主人だった伊助の妻です。伊助が亡くなったあとも女将として宿を切り盛りしました。慶応二年一月の寺田屋遭難のあと、お登勢は幕府から危険な人物と見られ、あやうく捕らえられかけたこともあります。それでも、お龍を養女のように扱い、龍馬たちの京坂での連絡役であり続けました。
須崎で向き合った後藤とパークス
このとき龍馬が須崎に来ていたのは、イカルス号事件の調べのためでした。英国公使パークスは、水夫殺害の犯人を海援隊とみて、土佐藩に厳しく迫っています。土佐藩の側で交渉にあたったのは後藤象二郎で、「証拠があれば処罰する」と答えました。調べはこのあと長崎へ移されます。
家族のすぐ近くまで来ながら
須崎は高知の城下から遠くない港です。しかし、龍馬がこのとき家族と会った記録は確かめられていません。姉の乙女や兄の権平と五年ぶりに再会するのは、ひと月半ほどのちの九月下旬のことです。
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