佐井虎次郎 宛
| 原文 |
| 此度のお咄お、クハ敷成可被遣候。愚兄の内此佐井ハ北奉行人町杉山佐井虎次郎幸助方ニて御尋可被遣、此杉山にも私の咄御なし可被遣候。佐井よりハ曽而手紙参りたり、いまだ返書不出候得バ、此度の事くハしく御咄し被遣、其上彼手紙の礼も御申可被遣候。竜馬が乳母此うバわ私しお、きづかいおり候ものゆへ、何卒此ぶじなる事を御直ニ御申、愚兄が家御出被下候時に御まねき被成候得バ、早々参上仕候。 |
| 現代文 |
| 今度のことは、詳しくお話しください。この佐井虎次郎(土佐藩士)は北奉公人町の杉山幸助方にいますので、訪ねてください。、その旨、杉山にも私の話をしてあげて下さい。佐井虎次郎よりかつて手紙を頂いたが、いまだに返事はだしていないので、これも詳しく話してあげて下さい。そのうえで、佐井からの手紙のお礼も伝えてください。龍馬の乳母。この乳母は私を、心配してくれている人ですので、どうか私が無事でいることを、乳母にじかに伝えてください。兄の家へ来て下さる時に、呼んで頂ければ、急いで行かせて頂きます。 |
出典:原文は宮地佐一郎編『龍馬の手紙』(講談社学術文庫)によります。現代文は、運営者がこの原文をもとに独自に訳したもので、解説も運営者が書いています。
この手紙について
宛先不明の私信で、文中に佐井虎次郎のことが出てきます。佐井が兄の家(杉山幸助方)を訪ねる件の取り計らいや、以前もらった手紙への返事が遅れた詫び、自分を案じてくれる乳母への心づかいなどを、こまやかに頼んでいます。政談ではなく、龍馬の律義で情の深い一面がにじむ手紙です(同じ内容の書簡が別に伝わっています)。
宛先「佐井虎次郎」とはどんな人物か

土佐藩士で、龍馬と手紙を交わしていた同郷の一人です。くわしい経歴は、調べた範囲では確認できません。
なお、以前このページでは、佐井虎次郎を「板橋で近藤勇を斬首した人物」と書いていましたが、これは誤りでした。慶応四年(1868)四月、板橋で近藤勇の首を斬ったのは、岡田家(岡田播磨守)の家臣・横倉喜三次と伝えられています。おわびして訂正します。
この手紙が書かれたころ
天下の周旋に奔走しながらも、故郷の家族や乳母への情を忘れなかったころの龍馬です。大事の合間の細やかな配慮に、その人柄がしのばれます。倒幕へ向けて政局が緊迫を増すなか、志士たちは人の縁を頼りに各地を行き来していました。手紙による連絡が、その活動を陰で支えていました。土佐の人々はそれぞれの立場で時代の波にもまれていました。龍馬は藩を離れてもなお、同郷の士や身内との絆を大切にし続けました。
宛先の分からない手紙に出てくる佐井と杉山
宮地佐一郎は『龍馬の手紙』の続編でこの手紙を八番に置き、題を「宛先き、年月日、未詳(推定、慶応二年春)」としています。宛名も日付も残っておらず、慶応二年春という時期は宮地の推定です。宮地の題に従えば、佐井虎次郎は宛先ではなく文中に登場する人物で、「北奉行人町」の杉山幸助方で訪ねてほしい相手として書かれています。「奉行人町」には宮地が「ママ」と注記しており、原本どおりの字であることが分かります。写真の説明によると、現物は高知の秦家の所蔵です。
杉山の名は、ほかの手紙にも出てきます。宮地の九番、文久三年六月十六日の池内蔵太の母あてには「杉山さん」が、十二番の乙女あてには「杉山へ御願の事」が見え、坂本家や周囲の人々と行き来のある家だったとうかがえます。推定どおり慶応二年春の手紙なら、一月に寺田屋で襲われて手に傷を負い、その後に薩摩へ渡った時期にあたります。ただ、文中の「ぶじなる事」がその遭難を指すかどうかは、文面からは分かりません。
慶応二年春、傷を負った龍馬と土佐の家族
寺田屋の傷と薩摩行き
慶応二年一月二十三日の夜、龍馬は伏見の寺田屋で幕府の捕吏に襲われ、手に深い傷を負いました。薩摩藩邸にかくまわれたのち、三月にはお龍を伴って薩摩へ渡り、傷を癒やしています。この手紙が推定どおり慶応二年の春のものなら、その最中に土佐の知人へ出したことになります。
姉への長い手紙
この年の十二月四日、龍馬は姉の乙女に長い手紙を書きました。寺田屋で襲われた夜のこと、お龍に助けられたこと、薩摩の霧島へ旅したことを、絵まで添えて詳しく伝えています。高知の家族が龍馬の身に起きたことを知ったのは、こうした手紙や、行き来する人の話を通じてでした。
まだ遠い土佐藩
このころの土佐藩は、なお幕府を支える立場にありました。藩内では、参政の後藤象二郎が開成館の事業を率い、殖産と軍備の立て直しを進めています。脱藩浪士の龍馬と土佐藩が手を結ぶのは、まだ一年近く先のことでした。
坂本龍馬の手紙139通(現代翻訳文)一覧



