高松太郎 宛

高松太郎 宛

原文
細左馬事、兼而海軍の志在、曽而馬関を龍と同伴ニて上京致候。在故て薩に下らんとす。今幸ニ太郎兄が帰長の事を聞ク。今なれバ彼ユニヲンに左馬をのせ候ても宜かるべく、左馬事ハ海軍の事ニハ今ハ不幸者と雖ども、度々戦争致候ものなれバ、随分後にハ頼も敷ものとも相成候べしと楽居候。もしユニヲンのつがふが宜しいとなれバ、西吉、小大夫の方ハ拙者より申談候てつがふ宜く候。能御考可被下候。早々頓首々。八日龍此書錦戸ニ頼ミ遣ス。但シ太郎ハ又変名在之。多賀松太郎様龍
現代文
細左馬(池内蔵太の変名)のことですが、かねてより海軍の志があり、以前、馬関(下関)から私と一緒に上京したこともあります。わけあって、これから薩摩へ下ろうとしています。幸いにも高松太郎(龍馬の甥)が長崎へ向かうと聞いた。内蔵太をユニオン号に乗せるにはちょうどいいと思う。※長州藩名(乙丑丸)、薩摩藩名(桜島丸)、海援隊名(ユニオン号)この船は龍馬が長州藩と薩摩藩のあっせんにより共同で購入してもらった。彼は今のところは海軍のことはあまり知らないけれども、今まで何度も戦争を経験してきたので今後は実に頼もしい存在です。もし、ユニオン号の都合がよければ、西郷吉之助、小松帯刀の方には私の方から宜しく伝えておきます。よくお考え下さいませ。8日龍馬よりこの手紙は錦戸に頼みます。ただし、太郎の名前には(高松太郎)は変名を使います。多賀松太郎様(高松太郎:龍馬の甥)龍馬より

出典:原文は宮地佐一郎編『龍馬の手紙』(講談社学術文庫)によります。現代文は、運営者がこの原文をもとに独自に訳したもので、解説も運営者が書いています。

目次

この手紙は、池内蔵太の最後の数か月に書かれました

手紙に出てくる「細左馬」は、土佐出身の池内蔵太のことです。細川左馬之助という変名を使っていたので、龍馬はそれを縮めて呼んでいます。龍馬が「度々戦争致候もの」(何度も戦をくぐってきた男)と書いているのは誇張ではありません。池は脱藩ののち、天誅組の挙兵や長州側での戦いに加わってきた人でした。

その池内蔵太は、慶応二年(1866)五月二日、亀山社中の帆船ワイルウェフ号が五島・中通島の潮合崎(しおやざき)沖で嵐にあって沈んだとき、船とともに亡くなっています。ユニオン号の名が出てくるこの手紙は、池がまだ生きていて、これから海軍の仕事を覚えようとしていたころ、つまりその数か月前の一通ということになります。「後にハ頼も敷ものとも相成候べしと楽居候」(のちには頼もしい者になるだろうと楽しみにしている)という龍馬の期待は、かないませんでした。

「寺田屋での傷」は龍馬自身のものです

上の現代文には「寺田屋での傷の養生の為」と補ってありますが、原文にあるのは「在故て薩に下らんとす」(わけがあって薩摩へ下ろうとしている)だけで、寺田屋の文字はありません。慶応二年正月に伏見の寺田屋で襲われ、手に深い傷を負ったのは龍馬本人で、その傷をいやすためにお龍と薩摩へ下ったのも龍馬です。池内蔵太が薩摩へ向かう理由は、この手紙からは分かりません。

三つの名前をもつ船

手紙の「ユニヲン」は、龍馬の周旋で薩摩藩の名義を借りて長州藩が買った蒸気船です。長州では乙丑丸、薩摩では桜島丸と呼ばれ、亀山社中の者たちはユニオン号と呼びました。船の持ち主と使い方をめぐって長州と薩摩・社中のあいだで話がもつれた船でもあり、龍馬が「ユニオンのつがふが宜しいとなれバ」と都合をうかがっているのも、その事情があったからでしょう。西郷吉之助と小松帯刀には自分から話をつける、と書いているのは、船の名義が薩摩にあったためと読めます。

この手紙について

甥・高松太郎へ宛て、海軍の志を持つ池内蔵太(細左馬)を汽船ユニオン号に乗せ、長崎へ帰る高松太郎に託してユニオン号に乗せる段取りを伝えた手紙です。ちょうど長崎へ発つ高松太郎に船を託せば好都合だと記し、船の名の由来にも触れています(同じ内容の書簡が別に伝わっています)。

宛先「高松太郎」とはどんな人物か

坂本直
坂本直(高松太郎)(パブリックドメイン/Wikimedia Commons)

龍馬の甥で、早くから海軍・海運の活動に加わり、のちに坂本直と名乗り、龍馬の跡(坂本龍馬家)を継いだ人物です。身内でありながら頼れる働き手として、龍馬を支えました。

この手紙が書かれたころ

薩長が共同で得た汽船を核に、海運と海軍の組織づくりを進めていたころの龍馬です。仲間の適性を見て役目を割り当てる、組織の長らしい差配が板についてきていました。薩長同盟のもと、長州は薩摩名義で軍艦や兵器を整えていました。汽船は倒幕勢力にとって人と物を運ぶ生命線であり、その運用は大きな意味を持ちました。土佐を離れた龍馬は、身内や同志を集めて独自の船団を育てていました。この組織がやがて海援隊へと成長し、土佐藩とも結びついていきます。

鹿児島へ向かう船旅のころ、「細左馬」を船に乗せる相談

この手紙に書かれた日付は「八日」だけで、宮地佐一郎編『龍馬の手紙』は慶応二年三月八日のものと比定しています。霧島市の解説によれば、龍馬とお龍はこの年の三月に大坂から蒸気船に乗り、長崎を経て十日に鹿児島へ着いています。宮地の比定に従えば、手紙の日付はその到着の二日前にあたり、細左馬が「薩に下らんとす」という一節も、同じ時期の薩摩行きの動きと重なります。

二か月ほど前、宮地が慶応二年一月二十日と比定する池内蔵太の家族あての手紙で、龍馬は蔵太が「海軍の修行」に出ていると伝えており、細左馬を池内蔵太とする読みとよく合います。龍馬の手帳の写しには、丙寅(慶応二年)五月二日にワイルウェフ号が五島の塩屋崎で難破し、死者十二人を出したと記されており、高知県立坂本龍馬記念館は、池内蔵太がこの船の乗組士官として遭難したと解説しています。

同じころの龍馬—鹿児島へ向かう船の上

三邦丸の旅 この手紙が書かれた慶応二年(1866)三月八日ごろ、龍馬とお龍は、小松帯刀・西郷隆盛らとともに薩摩藩の船・三邦丸で鹿児島へ向かっていました。三月十日に鹿児島に着いた一行は、まもなく霧島に入り、温泉で龍馬の傷を癒やします。

世の中では そのころ、幕府は長州に処分を受け入れさせるため、老中の小笠原長行を広島に送り、長州の代表を呼び出していました。長州はこれに応じず、幕府は武力で決着をつける方向へと進んでいきます。六月に第二次長州征討の戦いが始まる、わずか三か月前のことでした。

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