池内蔵太家族 宛(31通目) 坂本龍馬の手紙 原書と現代文翻訳

原文

池御一同杉御一同先日大坂ニい申候時ハ、誠に久しぶりにかぜ引もふし薬六ふく計ものみたれバ、ゆへなくなをり申候。夫が京に参り居候所、又々昨夜よりねつありて今夜ねられ不申、ふとあとさきおもいめぐらし候うち、私し出足のせつは皆々様ニも誠に御きづかいかけ候計と存じ、此ごろハ杉やのをばあさんハどのよふニなされてをるらふとも思ひ定而、池のをなんハいもばたけをいのししがほりかへしたよふな、あとも先もなき議論を、あねなどとこふじより、あせたしいうさるほねおりばなし、よめもともどもつバのみこみ、きくみ〃たらずとふたつのみ〃ほぜくりあけてぞ、きかるべしなん。

ある老人論じていう、女というものハ人にもよるけれど、高のしれたをんなめ、かの坂本のをとめとやら、わるたくみをしそふなやつ、あまり々たらわぬちゑでいらざる事までろんじよると、すこしでもものしる人になれなれしくしたく、そふするうちになにとなく女の別もただしからぬよふニなりやすいものじゃ。なにぞききたくなると、男の方へたずねありくよふになり、かふいうとそのやミタ、思ひあたる人があるろふ。かの女れつじよでんなど見ると、誠に男女の別というものハたゞしい。

男の心ニハ女よりハべして女がこひしい事もあるが、あの年わかい蔵太の玉のよふなるをよめごを、なにぞふるきわらぢのよふ思ひきりて、他国へでるも天下の為と思へバこそ、議理となさけハ引にひかれず、又々こんども海軍の修行、海軍のというハおふけなおふねをのりまはし、砲をうつたり、人きりたり、それハ々おそろしい義理というものあれバこそ、ひとりのをやをうちにをき、玉のよふなる妻ふりすて、ひきのよふなるあかごのできたに、夫さへ見ずとおけいとハ、いさましかりける次第なり、かしこ。正月廿日龍杉御一同池御一同あねにも御見せ。

現代文

池ご家族一同杉ご家族一同先日大阪にいた時は、本当に久しぶりに風邪をひき、薬を6服ほども飲んだところ、難なく治りました。そうそう京都に行ったときに、昨夜からまたまた熱が出たので今夜はなんだか眠れない。ふと後先を思いめぐらしているうちに、私が出奔する際は皆さまにも本当にご心配をかけましたね。今頃は杉のおばさんはどうしているかな。池のおばさんは芋畑で猪が掘り返したような、後先もなく意味のない骨折り話を姉などと話してるのかな。お嫁さん共々、唾を飲み込み、聞く耳もたずとも二つある耳をよ~くほじくって聞いて下さいね。ある老人がこう言っていた、女というものは人にもよるけれど、言うまでもなくたかがしれたものだ。

そして、あの坂本乙女とやらは悪いことをしそうな奴だ、あまり頭も良くなく言わなくてもいいような話まで話している、と。少しでも物を知る人には馴れ馴れしくしたがり、そうするうちに、なんとなく男女のけじめも乱れやすくなるものじゃ。何かを聞きたくなると、男のほうへ訪ね歩くようになるのです。こうなるとそれみたことか、思い当たる人がいるでしょう。あの列女伝などを見ると、本当に男女の違いというものを正しく書いてある。男の心は女とは別で、女が恋しいこともあるにはある。が、あの年若い内蔵太のかわいいお嫁さんを草鞋(わらじ)のように扱い、思い切って国を出るのも天下の為と思えばこそです。義理と情けは引くに引けないものです。また内蔵太は最近も海軍の訓練をしています。

海軍というのは大きな船を乗り回し、大砲を打ったり、人を斬ったり、それそれは恐ろしいものです。義理というものがあればこそ、自分の親を家に残し、かわいい妻を振り捨て、ひきがえるのような赤子も生まれたのに、それさえ見届けず、実に勇ましいことです。正月20日龍馬より池ご家族一同杉ご家族一同姉(乙女姉さん)にも見せて下さいね

出典:原文は宮地佐一郎編『龍馬の手紙』(講談社学術文庫)によります。現代文は、運営者がこの原文をもとに独自に訳したもので、解説も運営者が書いています。

目次

池家への見舞いの手紙をくわしく読む

いつ書かれたのか

日付は「正月廿日」です。池内蔵太が「海軍の修行」に出ていると書かれていることから、内蔵太が亀山社中に加わった後の慶応二年(1866)一月二十日の手紙と考えられています。このとき龍馬は京にいて、薩摩藩邸で桂小五郎と西郷隆盛らの話し合いを取り持っていました。薩長同盟が結ばれるのは、この手紙のわずか一、二日後です。

熱にうかされた夜の手紙

大坂で風邪をひき、薬を六服飲んで治ったと思ったら、京でまた熱が出て眠れない。そんな夜に、脱藩したときに池家の人々にかけた心配を思い出して筆をとった、と龍馬は書いています。日本の行方を決める交渉の直前に、同志の家族へ手紙を書いていたことになります。

乙女への「悪口」をまねる

中ほどでは、ある老人の口を借りて「坂本の乙女とやらは、足りない知恵でいらぬ事まで論じる」「物知りの男に近づいて、男女の別が乱れる」と、姉の乙女を皮肉る言葉を並べています。これは龍馬自身の意見ではなく、世間の年寄りが言いそうな小言をおもしろおかしくまねたものです。宛名の最後に「あねにも御見せ」とあるので、乙女が読んで笑うことを承知で書いた冗談と読めます。池家の女性たちが乙女と集まって議論している様子を、猪が芋畑を掘り返したようだとからかう部分も同じ調子です。

内蔵太の妻と子

後半は一転して、内蔵太の家族へのいたわりです。年若い玉のような妻を古草鞋のように思い切って国を出たのも、天下のためと思えばこそ。いまは海軍の修行で大きな船を乗り回し、大砲を撃ち、人を斬る恐ろしい仕事をしている。親を家に残し、妻を残し、生まれた赤子の顔さえ見ずにいるのは勇ましいことだ、と龍馬は内蔵太の立場を代弁しています。脱藩浪士の家族が背負ったものの重さがにじむ一節です。

この手紙の四か月後

この年の五月、内蔵太はワイルウェフ号の遭難で亡くなり、妻と赤子のもとに帰ることはありませんでした。龍馬が「赤子の顔さえ見ずに」と書いた子に、父が会うことはついになかったのです。

この手紙について

同志・池内蔵太の家族へ宛てた心のこもった私信で、大阪で風邪をこじらせ薬を六袋も飲んだことや、京都で夜中に熱が出て眠れぬまま、かつて自分が出奔した折に家族へかけた心配を静かに振り返っています。故郷の人々の暮らしぶりに思いをはせる筆致に、多忙な龍馬の内にある温かな人情がにじみます。同じ内容の書簡が別に伝わっています。

宛先「池内蔵太の家族」とはどんな人物か

坂本龍馬の肖像写真
この手紙の書き手、坂本龍馬(パブリックドメイン)

土佐脱藩の同志・池内蔵太の家族です。内蔵太は龍馬と苦楽を共にした志士で、慶応元年に亀山社中に加わりましたが、海援隊の結成を待たずに慶応二年に海難で命を落とします。龍馬はその家族へ、繰り返し心を寄せていました。

この手紙が書かれたころ

薩長をつなぐ大仕事に追われながら、旅の疲れで体調を崩していたころの龍馬です。天下を相手にする活動家でありながら、遠く離れた仲間の家族の心情にまで細やかに気を配りました。薩長同盟の成立と第二次長州征伐により、時代は倒幕へと動いていました。その渦中で、志士たちは休む間もなく各地を奔走していました。藩を離れた土佐の志士たちは、各地で身を賭して戦っていました。龍馬は同郷の同志やその家族との絆を、生涯変わらず大切にし続けました。

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