印藤聿 宛
| 原文 |
| 昨日山口より中島四郎、能間百合熊、福原三蔵外要路の人山田宇右衛門とか申人被参候。いまだ咄合いも不仕候所なれども、案ズルニ今日中ニ事すミと相成可申か、山口よりハ木圭小五郎よりも長々敷手紙参、半日も早く上京をうながされ候。然レ共此度の上京私一人外当時船の乗組一人位の事なるべくたれか京ニ御出しなれバ、はなはだつがふ能しかるべし。一、山口の方へハ薩州人黒田了介と申人参居候故、此人とともニ桂氏ハ先日上京と承り候。其桂ニ諸隊の者人物とよバれ候人を七八名も同行致セしよし申来り候。一、私しの船ハ正月二日三日頃出しも可仕か、いまだ不分明なり。右よふ成行ニ候得バ其御心積なり。廿九日謹言々。〆印藤様龍馬 |
| 現代文 |
| 昨日山口より中島四郎(長州藩海軍)、能間百合熊(財満百合熊のこと長州藩海軍)、福原三蔵(奇兵隊士)の他要人が山田宇右衛門(長州藩士)とかいう人ときました。まだ話し合いもしていませんが、思うに、今日中に話がまとまるだろう。山口から桂小五郎(木戸孝允)の長い手紙が届いて、半日でも早く上京するよう促されました。けれども今回の上京は、私一人のほかは船の乗組員が一人ほどになるでしょうから、誰か(長府藩から)京都へ出していただければ、たいへん都合がよいのですが。一、山口には薩摩藩の黒田了介という人がきているので、この人と一緒に、桂さんは先日上京したと聞きました。この桂さんに諸隊の者が7・8人同行します。(薩長同盟のため)一、私の船は正月2日・3日頃に出港すると思うがいまだに不明です。上記のように出港出来ればと思ってます。29日印藤様龍馬より |
出典:原文は宮地佐一郎編『龍馬の手紙』(講談社学術文庫)によります。現代文は、運営者がこの原文をもとに独自に訳したもので、解説も運営者が書いています。
この手紙について
長州の要人たちが来訪した翌日に記された一通で、長州海軍の中島四郎らが来訪したことや、山口の桂小五郎から予定より早く京都へ向かえとの長文の書面が届いたことを伝えています。長府藩から誰か京都へ出してほしいと頼む筆致に、薩長の海軍協力を支えた現場の慌ただしさがにじみます。同じ内容の書簡が別の宛名でも伝わっています。
宛先「印藤聿」とはどんな人物か

長府藩の藩士で、のちに豊永長吉と名乗りました。下関を拠点とする龍馬を、船の手配などで陰から支えた協力者です。長州側にこうした味方を得ていたことが、龍馬の周旋を助けました。
この手紙が書かれたころ
薩長をつなぐ象徴・ユニオン号の運用に追われ、下関と京の間を人と船とで結んでいたころの龍馬です。同盟を紙の上の約束で終わらせず、実際に動かすための実務を一身に背負っていました。薩長同盟が成立し、第二次長州征伐が始まりました。薩摩の名義で軍艦や武器を得た長州が幕府軍を退け、倒幕への大きな流れが動きはじめます。土佐がなお沈黙を守るなか、龍馬は藩を離れた立場で薩長の実務を担っていました。その働きが、やがて土佐藩を大政奉還へと動かす伏線となっていきます。
宛名の印藤聿と、龍馬の「竹島」の夢
下関の協力者 印藤聿は長府藩士で、下関に拠点を置いた龍馬を、船の手配や連絡の面で支えた人物です。薩長同盟が結ばれた慶応二年(1866)前後、龍馬は薩摩名義で長州のために買い入れたユニオン号(乙丑丸)の運用をめぐって、印藤ら長府藩の人々と頻繁に連絡を取り合っていました。
竹島開拓の構想 龍馬が印藤に宛てた手紙のなかでよく知られているのが、慶応三年(1867)三月の一通です。そこで龍馬は、日本海の「竹島」(いまの鬱陵島を指すとみられます)へ渡って島を開き、木材などを得る計画を打ち明けています。海援隊を率いて海に乗り出そうとしていた龍馬は、商いと開拓によって新しい道を開く夢を、長府の友に語っていたのです。印藤は龍馬にとって、そうした大きな構想を語れる相手の一人でした。
下関に集まる人と情報
長府藩士・印藤聿
宛先の印藤聿(はじめ)は長府藩士で、龍馬が下関を拠点にしていたころの協力者の一人です。龍馬とは竹島の開拓の構想を語り合う間柄でした。長府藩は長州藩の支藩で、下関のすぐ近くに陣屋を置いています。龍馬が下関に部屋を借りてからは、長府藩の人びととの行き来が増えていきました。
長州の海軍と諸隊
手紙には、長州藩の海軍の者や奇兵隊士が山口から来たと書かれています。長州藩は、前の年の幕府との戦いで、海でも陸でも幕府軍を退けました。その中心にいたのが、身分を問わずに兵を集めた奇兵隊などの諸隊と、洋式の軍艦を備えた海軍です。龍馬は、こうした長州の人びとと膝を突き合わせて話をまとめていました。
木戸の催促
山口の木戸孝允から、一日でも早く上京するよう促す長い手紙が届いたことも、この手紙に記されています。木戸は、京都の政局に龍馬の力が要ると見ていました。長州藩はまだ朝敵とされ、藩士が表立って京都で動けない時期です。土佐藩の側に立ち始めた龍馬は、長州にとっても京都への大事な窓口でした。
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