備中松山城は、現存する十二の天守のうち、ただ一つ山城に建つ天守です。秋から春にかけての早朝、麓に霧がたまると、天守だけが雲の上に浮かんで見えます。ただし幕末のこの城は、絵になる山城であると同時に、政務の場ではありませんでした。藩主も家臣も、ふだんは麓の御根小屋にいます。そして慶応四年の正月、この城は一発も撃たずに明け渡されました。城の造りと、幕末に何が起きたのかを分けて書きます。
臥牛山という山に、四つの峰があります
城があるのは岡山県高梁市内山下、臥牛山と呼ばれる山です。牛が腹ばいになって草を食んでいる姿に似ているというのが名の由来で、地元では単に「お城山」と呼ばれます。山は北から大松山、天神の丸、小松山、前山の四つの峰に分かれていて、天守が建っているのは小松山です。
標高は資料によってまちまちです。高梁市は天守の建つあたりを約四百三十メートルとし、最高峰の天神の丸を約四百八十メートルとしています。同じ市の広報では小松山を約四百二十メートル、山全体を四百八十七メートルと書いており、岡山県は臥牛山を四百四十メートルとしています。四百二十から四百八十七まで幅があるので、ここでは天守が建つのは標高四百三十メートルほど、とだけ書いておきます。
山全体が城でした。城の全長は約一千八百メートルに及びます。国の史跡「備中松山城跡」に指定されているのは八か所で、北から切通及び番所跡、大池、大松山城跡、天神の丸跡、相畑城戸跡、小松山城跡、中太鼓櫓跡、下太鼓の丸跡。指定は昭和三十一年十一月七日です。
高さ十一メートル、現存天守でいちばん低い天守です
天守は二層二階、高さは約十一メートルで、現存天守のなかでいちばん低いものだと高梁市は書いています。建っている場所は最も高く、建物そのものは最も低い。この対比がこの城の面白いところです。古文書では「三重櫓」と呼ばれていて、外から見ると三重に見えますが中は二階建てです。
建てられたのは天和元年から三年にかけて。水谷勝宗が三年がかりで大改修したときのもので、現存する二重櫓や大手門、二の丸櫓門、搦手門、三の丸の上番所や足軽番所もこのときに整えられました。天守、二重櫓、三の平櫓東土塀の三棟は、昭和十六年五月八日に国の重要文化財となっています。
なお天守は本来、八の平櫓から廊下を通って入る連郭式の造りでした。昭和十五年の大修理のとき、傷みがひどくて元に戻すのが難しく、やむなく切り離したと高梁市は説明しています。いま独立して建って見えるのは、そのためです。
中に入ると一階に囲炉裏があり、城主専用の一段高い「装束の間」があります。二階の正面には御社壇が設けられ、三振の宝剣を御神体として祀っていたと伝わります。
岩を削り、その上に石垣を積んでいます
この城の見どころは、建物よりむしろ石垣かもしれません。臥牛山は岩の多い山で、築いた人たちは岩をどけずに使いました。天守も二重櫓も、自然の岩盤を削り出して台とし、その上に石垣を積み、さらにその上に建物を載せています。大手門跡の右手では、大きな自然石と人の積んだ石がそのまま噛み合っているのが見えます。
御膳棚の先にあるのが城内でいちばん古い石垣で、大きな自然石を積んだ野面積みです。高梁市は、毛利氏が造らせたと考えられる唯一の部分だとしています。三の丸では段々に築かれた石垣、大手門跡では直線では通れない折れ曲がった通路と高い石垣が続きます。
大池も珍しい遺構です。石垣で囲まれた池で、江戸時代の絵図には屋根をかけて船を浮かべたものもあります。山城にとって水場は命綱でした。かつては血の池とも呼ばれ、刀を洗った池だという言い伝えが残っています。
藩主は、山の上には住んでいませんでした
幕末の話に入る前に、押さえておきたいことがあります。政務も藩主の暮らしも、山の上ではなく麓でおこなわれていました。その場所が御根小屋です。
御根小屋があったのは、いまの岡山県立高梁高等学校の敷地です。中世には臥牛山のふもとに城主の居館がありましたが、天正二年から三年の備中兵乱で焼けました。その後、慶長十年から十五年にかけて小堀政一、のちの遠州が政務の場としてあらためて造営し、水谷氏の二代勝宗が大きく改築します。根小屋というのは関東の豪族が館の麓につくった集落を指す言葉で、下館から移ってきた水谷氏が持ち込んだ呼び名だと高梁市は説明しています。御根小屋跡は平成三年四月五日に岡山県の史跡となりました。
山上と麓は太鼓でつながっていました。前山の下太鼓の丸跡は、麓の御根小屋から打たれる太鼓の音を中太鼓櫓へ中継する基地です。城の役割の一端がここに見えます。
幕末、山にはまた手が入りました
この城に板倉家が入ったのは延享元年です。高梁市の沿革ページには正徳元年と書かれていますが、同じ市の年表も文化庁も延享元年としているので、そちらを採ります。以後、勝澄から数えて勝静、勝弼まで続きました。藩の歩みは備中松山藩/板倉家五万石:板倉勝静にまとめてあります。
幕末に山上の城へ手が入ったことがわかる記録が一つあります。安政四年、臥牛山内に切通の番所を設け、城の整備をおこないました。切通は臥牛山と東隣の佐与谷山の境に設けられたもので、曲線を描く石垣が特徴です。高梁市はこの番所を「幕末の動乱期に設置されたと言われています」と説明しています。北からの攻撃を警戒していたということになります。
ただし、この時期の藩の力は山の上ではなく、平地と数字のほうに向いていました。元治元年の第一次長州征討では、藩主の板倉勝静が山陽道の先陣を務めるため十月に松山へ帰り、十一月に藩兵を率いて広島へ出陣します。大砲十六門と鉄砲隊を伴っていました。「五万石でも松山様は、御陣羽織が虎の皮」という文句は、このときの軍歌が残ったものだと伝えられています。
留守を預かったのが山田方谷でした。方谷は約千二百人の農兵隊を藩境に配し、自分は頼久寺に本部を置いています。城に籠もるのではなく、国境で止める構えでした。慶応二年に立石孫一郎らが倉敷代官所を襲った騒動のときも、方谷は自ら一隊を率いて野山まで出ています。この藩がなぜ兵と金を持てたのかは山田方谷とは何をした人物かをご覧ください。
慶応四年正月十八日、城は戦わずに開きました
鳥羽伏見の戦いのあと、備中松山藩は朝敵とみなされます。岡山藩主の池田茂政が新政府の命で松山征討に向かい、藩は恭順を申し出ました。
降伏の交渉は美袋の本陣でおこなわれます。このとき岡山藩が示した降伏文書の案が、勝静の行いを「大逆無道」と書いていました。方谷はこれに反対し、この文字を除かねば自分は自刃すると言います。使者の大石隼雄は号泣し、三島中洲と横屋譲之助が死を賭して嘆願したため、「軽挙暴動」の字に替えることが許されました。そして正月十八日、すべてを岡山藩に差し出し、藩士は城下を離れて謹慎します。備中松山城は無血で開かれ、備前岡山藩の支配下に入りました。
山上の城を誰が守っていたのかを記した公的な資料は、今回は見つけられませんでした。家老の熊田恰はこのとき玉島にいます。京坂で勝静を守っていた百五十余人を率いて海路帰ってきたものの、松山では受け入れられず、首領の首を求められました。恰は部下と藩を救い玉島を戦火から守るため、正月二十二日、柚木邸の次の間で腹を切ります。四十四歳でした。その部屋には血しぶきの跡がいまも残っていると倉敷市は記しています。
廃城令をくぐって、天守は残りました
明治二年、板倉勝弼が高梁藩二万石として家を再興し、明治四年の廃藩置県を迎えます。城は明治五年に陸軍省の所管となり、明治六年の太政官公達で廃城、大蔵省に移されました。その後は農商務省、農林省と管轄が移っていきます。
高梁市は、廃藩置県のあと城は「荒れるにまかせていました」と書いています。取り壊されはしませんでした。なぜ残ったのかを説明した公的な記述は見当たりません。山の上で解体も搬出も手間がかかったから、という話はよく聞きますが、裏を取れていないのでここでは書きません。
手が入るのは昭和に入ってからです。昭和三年に高梁町が二重櫓を修理し、昭和十二年には復旧を支援する高梁保勝会ができました。昭和十四年、高梁町は町費一万八千余円を投じて天守の解体修理と土塀の補修に着手し、翌年に竣工します。そして昭和十六年、天守と二重櫓と三の平櫓東土塀が国宝、のちの重要文化財に指定されました。町が金を出して直した直後の指定です。
戦後も修理は続きます。昭和三十二年から三十五年にかけて二重櫓の解体修理と天守の部分修理、平成六年から九年にかけて本丸の復元で五の平櫓、六の平櫓、本丸南御門、本丸東御門、腕木御門、路地門、土塀が建てられ、平成十二年から十四年に天守と二重櫓の部分修理がおこなわれました。
雲海が出るのは、いつか
雲海に浮かぶ城の写真は、城のなかからは撮れません。臥牛山の東にある山の展望台から見ます。高梁市奥万田町の雲海展望台です。
高梁市によりますと、見られるのは九月下旬から四月上旬の早朝で、とくに十月下旬から十二月上旬には濃い朝霧が期待できます。時間帯は明け方から午前八時頃まで。条件は、天気が良く、朝方と日中の気温差が大きいこと。加えて無風であることです。
展望台の駐車場は四台ほどで、二百メートルほど奥にもう少し広い駐車場があります。岡山自動車道の賀陽インターチェンジから車で約十五分。十二月から二月は雪が積もることがあり、展望台周辺の道路が凍ることもあります。備中高梁駅からは観光乗合タクシーが十月一日から三月三十一日まで早朝二便あり、前日の午後五時までの予約制、ひとり往復三千円です。
臥牛山の猿は国の天然記念物です。出会っても石や棒でおどかさず、食べ物を与えないようにと高梁市は呼びかけています。
訪ねるなら
開城時間は四月から九月が午前九時から午後五時三十分、十月から三月が午前九時から午後四時三十分です。最終入城はそれぞれ三十分前。休城は十二月二十九日から一月三日まで。入城料は大人五百円、小中学生二百円で、支払うのは本丸に入るときです。二の丸までは無料で入れますが、夜間の登城は危険なので遠慮してほしいと市は書いています。
車で行けるのは五合目のふいご峠までで、そこから天守までは徒歩約二十分。山道には石が転がっているところもあるので運動靴か登山靴がいります。階段だけなので車椅子での登城はできません。
料金が最近変わっているので注意が必要です。城見橋公園とふいご峠を結ぶ登城整理バスは、令和八年九月一日から大人六百円、小中学生三百円になりました。あわせて同年九月からふいご峠の駐車場が有料になり、普通車と軽自動車が千円、二輪車が五百円、現金のみです。バスの運行中は城見橋公園からふいご峠まで自家用車では上がれません。
猫城主さんじゅーろーと、新選組
この城には猫の城主がいます。平成三十年十二月十六日に「再入城の儀」を行って正式に就任した、さんじゅーろーです。
名前の由来が幕末につながっています。高梁市観光協会によりますと、備中松山藩の出身で新選組七番隊の組長を務めた谷三十郎にちなんだもので、見つかった場所が三の丸だったことも掛けてあるそうです。当の隊士については谷三十郎【新選組隊士 七番隊隊長 幕末】にまとめてあります。藩が生んだのは財政家だけではなかった、ということになります。
参考にした資料
- 高梁市『備中松山城 概要/沿革/略史/備中松山城跡/重要文化財/見どころ/よくあるご質問』
- 高梁市『雲海に浮かぶ備中松山城を望む展望台』『入城料改定について』『ふいご峠駐車場の有料化および登城整理バス整理料の改定』
- 高梁市『広報たかはし 地名をあるく 臥牛山/御根小屋』
- 高梁市歴史美術館『山田方谷について』、高梁市『山田方谷を語る 十二 幕末の動乱』『板倉勝静』
- 岡山県『備中松山城跡』『国指定文化財一覧』『県指定文化財一覧』
- 文化庁『文化遺産オンライン 備中松山城天守/二重櫓/三の平櫓東土塀/備中松山城跡』『国指定文化財等データベース』
- 倉敷市『旧柚木家住宅(西爽亭)』
- 高梁市観光協会『猫城主さんじゅーろー』『登城バス/乗合タクシー』
- 岡山県観光連盟『天空の山城「備中松山城」の魅力に迫る』

