| 池田七三郎 | |||
| 職名 | 局長附 | ||
| 出身 | 上総山辺 | ||
| 終焉場所 | 不明 | ||
| 終焉方法 | 病没 | ||
慶応3年に入隊しました。
会津母成峠の戦いに敗れた後、斎藤一らとともに会津に残留します。如来堂の戦いにも参加しその後「久米部正親」らに従い行動中に銚子警備の高崎藩に降伏しました。昭和13年まで生き、新選組最後の生き残りとなりました。
池田七三郎をもっと深く——新選組を最後まで見た男
この人の本名は稗田利八(ひえだ りはち)といいます。「池田七三郎」は隊にいたときの変名でした。
そして昭和十三年(1938年)まで生きました。享年九十。新選組隊士の、最後の生き残りです。
上総の商家から、新選組へ
嘉永二年十一月、上総国山辺郡田間村——いまの千葉県東金市の商家に、三男として生まれました。剣は一刀流で、江戸の天野精一郎の道場に学び、のちに旗本の家臣となります。
入隊は慶応三年。十九歳のときでした(資料によって慶応二年とするものもあり、諸説あります)。土方歳三が江戸で行った隊士募集に応じたと伝わります。
役職は局長附。近藤勇の直属で、入隊まもない見習いの身分です。護衛や親衛隊といった格好のいいものではなく、局長の身のまわりの用を務める役でした。
三度、死にかけています
入隊の翌月には、もう戦が始まりました。
- 鳥羽・伏見の戦い——右の脇腹に被弾
- 甲州勝沼の戦い——顔の右半分を貫通する重傷
- 母成峠の戦い——会津での敗走
そのあと会津に残り、斎藤一・久米部正親らと行動をともにします。慶応四年九月の如来堂の戦いで、包囲を脱出しました。会津田島から水戸へ抜け、同年十月、下総の銚子で高崎藩兵に降伏して捕らえられます。
東京へ護送されて約一年の謹慎。明治三年に放免され、日本橋材木町の店に戻って、商人として生涯を終えました。
昭和四年、新聞記者が訪ねてきた
ここからがこの人の本当の役どころです。
昭和四年(1929年)、東京日日新聞の記者だった子母澤寛が、八十歳の稗田利八を訪ねて話を聞き取りました。それが「新選組聞書——稗田利八翁思出話」として、昭和六年刊の『新選組物語』に収められています。
証言の中身は具体的です。たとえば不動堂村の屯所について、こう語っています。
醒ヶ井通七条下る三丁目にあった屯営で、それは実に堂々たる大名屋敷のようでした
この一言が、いまも屯所の位置を比定する重要な手がかりになっています。天満屋事件について斎藤一から直接聞いた話も含まれます。
ただし、そのまま史実として使えるわけではありません。子母澤自身が「生き残りの老人のはなしは、疑わしいものもあった」と書いています。六十年前の記憶を八十歳で語ったものですから、当然といえば当然です。
それでも、この証言が貴重な理由
新選組の隊士名簿は複数の系統があって錯綜しており、大半の隊士は名前と役職しか伝わっていません。当サイトの隊士ページを順に見ていただければ、それがよく分かると思います。
そのなかで、屯所の様子や隊士の日常を、実際にそこにいた人間の口から聞き取った記録が残っている——これは例外的なことです。壬生・八木邸で八木為三郎が語り残したものと並んで、新選組を「人が暮らしていた場所」として想像できる、数少ない手がかりになっています。
墓は東京都港区麻布台の真浄寺にあります。墓石には「新選組 池田七三郎事 稗田利八之墓」と刻まれています。
新選組隊士全456名情報

