池田七三郎【新選組隊士 局長附 幕末】

池田七三郎
職名 局長附
出身 上総山辺
終焉場所 不明
終焉方法 病没

慶応三年に入隊しました。
会津母成峠の戦いに敗れた後、斎藤一らとともに会津に残留します。如来堂の戦いにも参加しその後「久米部正親」らに従い行動中に銚子警備の高崎藩に降伏しました。昭和十三年まで生き、新選組最後の生き残りとなりました。

池田七三郎の肖像
池田七三郎の肖像(Wikimedia Commons、パブリックドメイン)
目次

池田七三郎をもっと深く—新選組を最後まで見た男

この人の本名は稗田利八(ひえだ りはち)といいます。「池田七三郎」は隊にいたときの変名でした。

そして昭和十三年(1938年)まで生きました。享年九十。新選組隊士の、最後の生き残りです。

上総の商家から、新選組へ

嘉永二年十一月、上総国山辺郡田間村—いまの千葉県東金市の商家に、三男として生まれました。剣は一刀流で、江戸の天野精一郎の道場に学び、のちに旗本の家臣となります。

入隊は慶応三年。十九歳のときでした(資料によって慶応二年とするものもあり、諸説あります)。土方歳三が江戸で行った隊士募集に応じたと伝わります。

役職は局長附。近藤勇の直属で、入隊まもない見習いの身分です。護衛や親衛隊といった格好のいいものではなく、局長の身のまわりの用を務める役でした。

三度、死にかけています

入隊の翌月には、もう戦が始まりました。

  • 鳥羽・伏見の戦い—右の脇腹に被弾
  • 甲州勝沼の戦い—顔の右半分を貫通する重傷
  • 母成峠の戦い—会津での敗走

そのあと会津に残り、斎藤一・久米部正親らと行動をともにします。慶応四年九月の如来堂の戦いで、包囲を脱出しました。会津田島から水戸へ抜け、同年十月、下総の銚子で高崎藩兵に降伏して捕らえられます。

東京へ護送されて約一年の謹慎。明治三年に放免され、日本橋材木町の店に戻って、商人として生涯を終えました。

昭和四年、新聞記者が訪ねてきた

ここからがこの人の本当の役どころです。

昭和四年(1929年)、東京日日新聞の記者だった子母澤寛が、八十歳の稗田利八を訪ねて話を聞き取りました。それが「新選組聞書—稗田利八翁思出話」として、昭和六年刊の『新選組物語』に収められています。

証言の中身は具体的です。たとえば不動堂村の屯所について、こう語っています。

醒ヶ井通七条下る三丁目にあった屯営で、それは実に堂々たる大名屋敷のようでした

この一言が、いまも屯所の位置を比定する重要な手がかりになっています。天満屋事件について斎藤一から直接聞いた話も含まれます。

ただし、そのまま史実として使えるわけではありません。子母澤自身が「生き残りの老人のはなしは、疑わしいものもあった」と書いています。六十年前の記憶を八十歳で語ったものですから、当然といえば当然です。

それでも、この証言が貴重な理由

新選組の隊士名簿は複数の系統があって錯綜しており、大半の隊士は名前と役職しか伝わっていません。当サイトの隊士ページを順に見ていただければ、それがよく分かると思います。

そのなかで、屯所の様子や隊士の日常を、実際にそこにいた人間の口から聞き取った記録が残っている—これは例外的なことです。壬生・八木邸で八木為三郎が語り残したものと並んで、新選組を「人が暮らしていた場所」として想像できる、数少ない手がかりになっています。

墓は東京都港区麻布台の真浄寺にあります。墓石には「新選組 池田七三郎事 稗田利八之墓」と刻まれています。

新選組隊士全456名情報

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会津での新選組の戦いと、土方・斎藤の別れについては、会津の新選組—宇都宮・白河口・母成峠・如来堂、土方と斎藤が別れた夏にまとめています。

会津若松の鶴ヶ城(福島県会津若松市)
会津若松の鶴ヶ城(福島県会津若松市)。新選組は戊辰戦争で会津藩とともに戦いました(現地取材の記事・筆者撮影)

池田七三郎の生きた時代—最後の新選組隊士

長生きした隊士 池田七三郎(のちの稗田利八)は、上総の出身で、慶応三年(1867)に新選組に加わり、鳥羽伏見から甲州勝沼、会津と転戦しました。明治になって故郷に戻り、昭和十三年(1938)まで生きています。新選組の隊士の中で、もっとも遅くまで生きた一人とされます。

語り残したこと 昭和のはじめ、作家の子母澤寛は池田を訪ねて話を聞き、その証言はのちの新選組の物語の素材となりました。池田のような長生きした隊士の語りがあったからこそ、新選組の姿はいまに伝えられているのです。

JR板橋駅前の近藤勇・土方歳三の墓(東京都北区)
JR板橋駅前の近藤勇・土方歳三の墓(東京都北区)。明治9年、永倉新八らが建てました(現地取材の記事・筆者撮影)

慶応三年、池田七三郎が入ったころの新選組

土方の江戸での募集

池田七三郎が加わった慶応三年、副長の土方歳三は秋に江戸へ下り、新しい隊士を募りました。この年の新選組は、三月に伊東甲子太郎らが御陵衛士として離れ、六月には隊士が幕府の家臣に取り立てられるなど、大きく変わっていました。屯所も六月に不動堂村へ移っています。このころの主な幹部は次のとおりです。

  • 局長:近藤勇
  • 副長:土方歳三
  • 副長助勤:沖田総司、永倉新八、原田左之助、井上源三郎 ほか
  • 斎藤一は三月に伊東甲子太郎らとともに隊を離れ、十一月に戻ったとされる
  • 参謀だった伊東甲子太郎、九番組長の鈴木三樹三郎、八番組長の藤堂平助らは、三月に御陵衛士として分離

入隊からわずか数か月で

池田が京都に着いて間もない慶応四年一月、鳥羽伏見の戦いが始まりました。新選組は伏見奉行所に陣を構えて戦いましたが、旧幕府軍は敗れ、隊は海路で江戸へ引き揚げます。そのあとは甲州勝沼、流山、会津と、転戦の日々が続きました。池田は会津まで戦い抜き、昭和の時代まで生きて、新選組の最後の生き証人の一人となりました。

参考資料:Wikipedia日本語版「池田七三郎」「新選組」、新人物往来社編『新選組大人名事典』、永倉新八『新撰組顛末記』ほか。隊士の生没年・出身・役職は、名簿や資料によって異なることがあります。

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