| 井上源三郎 | |||
| 職名 | 六番隊隊長 | ||
| 出身 | 武蔵日野 | ||
| 終焉場所 | 鳥羽伏見の戦い | ||
| 終焉方法 | 戦死 | ||

試衛館きっての最古参
井上源三郎は、天然理心流を学び、近藤勇の試衛館に早くから出入りしていた最古参の一人です。派手さはないものの、実直で面倒見がよく、若い隊士たちからも慕われる兄貴分的な存在でした。新選組では六番隊組長を務めています。

鳥羽・伏見に散る
戊辰戦争の緒戦・鳥羽伏見の戦いにおいて、井上源三郎は奮戦のすえ戦死しました。華々しい逸話は多くありませんが、草創期から新選組を地道に支え続けた誠実な人柄こそが彼の真骨頂でした。土方や沖田ら華のある隊士たちの陰で、隊の屋台骨を支えた縁の下の力持ちといえます。
近藤勇の兄弟子でした
井上源三郎は文政十二年三月一日、武蔵国日野宿北原の生まれです。八王子千人同心の家で、兄の松五郎も千人同心でした。天然理心流には弘化四年ごろ、十九歳で近藤周助に入門し、万延元年五月に免許を受けています。近藤勇より先に免許皆伝となっており、勇にとっては兄弟子にあたります。入門から皆伝まで十二年ほどかかりました。文武ともに劣るという人物評が流れていますが、日野の道場や資料館の側は、勇より先に免許を得たことや、池田屋で捕縛にあたったことを挙げてこれに反論しています。
淀千両松で戦死しました
慶応四年正月五日、鳥羽伏見の戦いの淀千両松で、腹に銃弾を受けて亡くなりました。四十歳です。
首と刀を埋めた話
甥の井上泰助が、当時十一歳で、叔父の首と刀を持ち帰ろうとしたものの重く、敵に捕まると諭されて、途中の寺の門前の田を掘って埋めた—という話が井上家に伝わります。もとは泰助の祖母ケイが語ったもので、埋めた寺をケイは欣浄寺と言いました。長く場所が分からないままでしたが、近年の調べで伏見の墨染にある欣浄寺と見られるようになっています。ただし同じ時代の書き物による裏づけは確かめられておらず、家に伝わる話として読むのが正しいところです。
日野に資料館があります
日野市日野本町に井上源三郎資料館があり、子孫の井上雅雄氏が館長をつとめています。開くのは第一と第三の日曜日の正午から午後四時まで。墓は日野市の宝泉寺にあり、境内に「井上源三郎之碑」が立ちます。日野駅前の碑には「性真摯篤実寡黙実行の人」と刻まれています。
井上源三郎と関わりの深い人たち
井上源三郎のゆかりの地
- 井上源三郎資料館(東京都日野市日野本町)—生家に子孫が開いた資料館。開館日が限られます。
- 宝泉寺(日野市)—井上家の墓所。
- 淀千両松のあたり(京都市伏見区)—鳥羽伏見の戦いで戦死した場所。
- 欣浄寺(京都市伏見区)—首を埋めたという伝承のある寺。
新選組の隊士たちの墓所は、新選組の墓所めぐりに地域ごとにまとめています。
池田屋事件の夜に出動した隊士の顔ぶれは、池田屋事件に出動した新選組隊士—近藤隊の十人と、駆けつけた土方隊・井上隊にまとめています。
鳥羽伏見の戦いでの新選組については、鳥羽伏見の戦いと新選組—伏見奉行所、淀千両松、そして江戸へにまとめています。
新選組の役職と、それぞれを務めた隊士は、新選組の組織と役職—局長・副長・組長・監察・勘定方・伍長、誰が何を務めたのかにまとめています。
新選組の隊士たちが学んだ流派は、新選組隊士の剣術流派—天然理心流・神道無念流・北辰一刀流、誰が何を学んだのかにまとめています。
近藤勇・土方歳三・井上源三郎のふるさと(調布の近藤勇生家跡、日野宿本陣、井上源三郎資料館、石田寺、高幡不動)は、【現地取材】新選組のふるさとを歩くで写真とともに紹介しています。
新選組をもっと知る本
小説で新選組に入った人も、史実から入りたい人も読みやすい本です。『新撰組顛末記』は二番隊組長・永倉新八が晩年に語った回顧録、『新選組始末記』は昭和の初めに関係者の聞き書きをまとめた本で、どちらも後の小説やドラマのもとになりました。
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井上源三郎の生きた時代—八王子千人同心の家
千人同心 井上源三郎の家は、武州日野の八王子千人同心の家でした。千人同心は、甲斐の武田家の旧臣たちを起源とする幕府の郷士の集団で、ふだんは農業を営みながら、日光東照宮の火の番などの役目を務めていました。源三郎の兄・松五郎も千人同心です。
武士と農民のあいだ 多摩の地には、こうした武士と農民のあいだの身分の人々が多く住み、剣術の稽古も盛んでした。天然理心流が多摩に広がったのも、その土地柄があってのことです。源三郎は近藤勇の兄弟子にあたり、試衛館の古参として新選組の六番隊の組長を務めました。
日野宿と佐藤彦五郎、井上源三郎の仲間たち
日野宿の名主・佐藤彦五郎
井上源三郎の故郷・日野は、甲州街道の宿場町でした。日野宿の名主・佐藤彦五郎は、自宅に天然理心流の道場を開き、近藤勇やその養父・周助を招いて稽古を重ねました。土方歳三の姉を妻とした彦五郎は、近藤や土方、井上たちが京都へ上ったのちも、資金や物資を送って彼らを支え続けています。日野の人びとのつながりが、新選組の土台の一つでした。
六番組長だったころの幹部
井上は、新選組が十の組に分けられたとき、六番組の組長を任されました。試衛館以来の古参として、年若い隊士たちを見守る立場にあったと伝わります。慶応元年ごろの幹部の顔ぶれは次のとおりです。
- 局長:近藤勇/副長:土方歳三/参謀:伊東甲子太郎
- 総長:山南敬助(慶応元年二月に切腹)
- 一番組:沖田総司/二番組:永倉新八/三番組:斎藤一
- 四番組:松原忠司/五番組:武田観柳斎/六番組:井上源三郎
- 七番組:谷三十郎/八番組:藤堂平助/九番組:鈴木三樹三郎/十番組:原田左之助
参考資料:Wikipedia日本語版「井上源三郎」「新選組」、新人物往来社編『新選組大人名事典』、永倉新八『新撰組顛末記』ほか。隊士の生没年・出身・役職は、名簿や資料によって異なることがあります。
新選組の隊士を続けて読む(名簿番号順)
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