日進丸【佐賀藩 バーク級巡洋艦 幕末軍艦】

日進丸
藩名 佐賀藩
藩主 鍋島直正(閑叟)
船種 バーク級巡洋艦
機関 蒸気
備砲 10門
材質 木製
馬力 710馬力
写真 有
日進丸のイメージイラスト
日進丸のイメージ(イラスト)。記録にある船の型(バーク級巡洋艦・蒸気)をもとに描いたもので、実際の姿ではありません

1869年にオランダ・ドレクトルト市で製造された1468トン級の蒸気輸送艦。慶応三年(1867年)、佐賀藩の「佐野常民」がバーク式帆走型の3本マストを持つ蒸気スクーナーとしてオランダのギプス社に発注し、明治三年(1870年)三月に長崎に回航され、日進丸と命名されました。

しかし、程なく新政府軍の軍籍となり「日進艦」と改名されました。日本海軍草創期の主力艦として活躍し、台湾出兵、西南戦争などに参加しました。西南戦争では熊本県河内・塩屋の薩摩軍を艦砲射撃し、政府軍の上陸作戦を支援しました。その他、海上封鎖作戦や輸送艦の護衛等に従事しました。

明治十八年に練習艦となり、明治二十五年には廃艦となりました。

目次

所属した佐賀藩と、江藤新平

この軍艦・日進丸を運用したのも、佐賀藩(鍋島家)です。佐賀が生んだ切れ者として知られるのが、江藤新平でした。

佐賀藩が持っていた艦船

一隻だけを見ていると、その藩が海にどれだけ力を入れていたかは分かりません。当サイトで扱っている佐賀藩の艦船は十二隻で、内訳は輸送船が五隻、砲艦・軍艦が四隻、帆船が二隻、その他が一隻です。

数のうえで中心になっているのは、戦うための砲艦ではなく人と物を運ぶ船です。幕末の海軍は、兵を運び、米を運び、使者を運ぶ仕事から始まっていました。

江藤は維新政府で初代の司法卿を務め、近代的な司法制度の整備に力を尽くしました。しかし政府と対立して下野し、明治七年(1874)の佐賀の乱を率いて敗れ、刑死します。急進的な改革者の悲劇として語られる人物です。日進丸は、その江藤を生んだ佐賀藩の一隻です。

幕末軍艦一覧リスト

佐野常民が注文した船です

この船を注文したのは佐野常民で、慶応三年のことでした。佐野は安政四年に飛雲丸の船将をつとめた人で、のちに博愛社をおこして日本赤十字社の初代社長となります。造ったのはオランダのヒップス社、開陽丸を造ったのと同じ造船所です。明治三年三月に長崎へ回され日進丸と名づけられましたが、四月十三日に佐賀藩が受け取ると、五月十四日には兵部省が献納を許し、六月二十二日に正式に引き渡されました。藩の船でいた時間は、三か月ほどしかありません。

新政府の主力艦になりました

日進艦と改められたあとの働きのほうが長く、明治七年の台湾出兵、明治十年の西南戦争に加わりました。西南戦争では熊本の河内や塩屋にいた薩摩軍を艦砲で撃ち、政府軍の上陸を助けています。明治十八年に練習艦となり、明治二十五年に廃艦。佐賀藩が注文してから二十五年働いた船でした。

佐賀藩主・鍋島直正と直大

日進丸を注文した当時の佐賀藩主は鍋島直正(閑叟)です。なお日進丸が引き渡された明治三年の藩主は直正の子の直大で、直正はこの年の正月に大納言を辞して隠退していました。

日進丸を船の型と持ち主から読む

日進丸は蒸気機関を積んだ船ですが、外輪かスクリューかを伝える記録は見つかっていません(外輪とスクリュー)。船種は「バーク級巡洋艦」。後ろのマストだけに縦帆を張る3本マストの「バーク型」の帆装を持つ巡洋艦です(帆の張り方・軍艦の格)。

当サイトで紹介している佐賀藩の船は、この日進丸を含めて12隻あり、そのうち帆船は2隻です。同じ佐賀藩の船には、孟春丸(スクーナー級砲艦)、飛雲丸(スクーナー)、電流丸(クリッパー級コルベット船)、晨風丸(カッター級輸送船)、神効丸(輸送船)、秋芳丸(輸送船)、甲子丸(バーク船)、皐月丸(バーク船)などがあります。

参考資料:Wikipedia日本語版「幕府海軍」ほか、博物館・自治体の公開資料。資料によって要目や日付が食い違う場合は、本文でその旨を書いています。

持ち主の佐賀藩—明治の海軍と佐賀の乱

明治の佐賀藩 日進丸は、明治のはじめに佐賀藩がオランダから買い入れた大型の船で、のちに政府に献納されて海軍の「日進」となりました。明治七年(1874)の台湾出兵にも加わっています。佐賀藩の人々は、明治政府の中でも大隈重信・副島種臣・大木喬任・江藤新平らが要職を占め、「薩長土肥」の一角を担いました。

佐賀の乱 その一方で、明治六年(1873)の政変で政府を去った江藤新平は、翌明治七年、佐賀の不平士族に担がれて兵を挙げます。佐賀の乱です。乱はすぐに鎮圧され、江藤は処刑されました。幕末に最先端の海軍を育てた佐賀は、明治のはじめにこうした悲劇も経験しています。

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