| 天保祿丸 | |||
| 藩名 | 宇和島藩 | ||
| 藩主 | 伊達宗城 | ||
| 船種 | スクリュー汽船 | ||
| 機関 | 蒸気内車 | ||
| 備砲 | 0門 | ||
| 材質 | 鉄製 | ||
| 馬力 | 60馬力 | ||
| 写真 | 無 | ||

原名「ペムブロック」・長22間・幅3間5尺・243トンです。
どこで建造され、どこで購入したのかは不明です。
原名は、下関で撃たれたあの船と同じ名です
この船の原名はペムブロックと記されています。文久三年五月十一日の午前二時、長州藩の砲台と庚申丸、癸亥丸が下関で撃ったアメリカの商船が、ペンブローク号でした。同じ名です。ただし、この二つを結びつける資料は見つかりませんでした。ペンブローク号は船長サイモン・クーパーの指揮で周防灘へ逃れ、豊後水道を抜けて上海へ向かっています。損傷は軽く、死んだ者もいませんでした。そのあとこの船がどうなったのかは、日本の資料にも英語の資料にも追えません。ペンブロークは当時ありふれた船の名でもあります。同じ船ではないかという想像は働きますが、そう書ける根拠はない、というのが正直なところです。
分かっているのは、寸法だけです
長二十二間・幅三間五尺で二百四十三トン。換算すると長さおよそ四十メートル、幅およそ七メートルです。どこで造られ、どこで買ったのかは当ページも不明としており、外部の資料にも天保祿丸という名は見あたりませんでした。読み方も確かめられていません。
宇和島藩は、戊辰では戦っていません
宇和島藩の伊達宗城は文政元年の生まれで、天保十五年に藩主となりました。安政五年の安政の大獄で隠居謹慎を命じられ、家督は養子の宗徳へ移ります。慶応三年には四侯会議に加わり、同じ年の十二月二十八日、新政府の議定となりました。ところが徳川慶喜が朝敵とされると議定を辞し、薩長のやり方に抗議して参謀も辞めています。宇和島藩は戊辰戦争で戦わず、中立を通しました。明治二年に民部卿と大蔵卿を兼ね、明治四年には欽差全権大臣として日清修好条規に調印しています。船を揃えながら、その船で戦うことのなかった藩です。
天保祿丸を船の型と持ち主から読む
天保祿丸の機関は「内車」、つまり水の中のスクリュー(プロペラ)を回す方式です。推進器が外から見えず砲弾に当たりにくいため、幕末の軍艦の主流になった型です(外輪とスクリュー)。船体は鉄で造られていました。日本で鉄の船が造れるようになるのは明治以降で、鉄船はすべて外国から買われたものです。
当サイトで紹介している宇和島藩の船は、この天保祿丸を含めて2隻あり、そのうち帆船は1隻です。同じ宇和島藩の船には、開産丸(スクーナー船)があります。
持ち主の宇和島藩の幕末をふり返ると、前藩主伊達宗城が新政府の議定に。新政府側。天保祿丸も、そうした藩の歩みのなかで使われた一隻です(藩ごとの船と幕末の立場)。
持ち主の宇和島藩—高野長英をかくまった藩
宇和島藩と蘭学
宇和島藩(伊達家十万石)は、藩主・伊達宗城のもとで蘭学を重んじた藩でした。嘉永元年(1848)ごろ、蛮社の獄で捕らえられたのち牢から逃げ出していた蘭学者の高野長英を、宗城はひそかに宇和島に招き、蘭書の翻訳や砲台の設計をさせています。長英はその後、江戸で幕吏に囲まれて命を落としました。
宇和島藩の四賢侯
宗城は越前の松平春嶽、土佐の山内容堂、薩摩の島津斉彬と並ぶ「幕末の四賢侯」の一人とされます。慶応三年(1867)の四侯会議にも加わり、雄藩の大名として国の政治にかかわりました。
買った年と値段が、市の文化財の説明に残っていました
上で「分かっているのは寸法だけ」と書きましたが、その後の調べで購入の経緯が見つかりました。出どころは宇和島市が市指定文化財「前原巧山の墓」について書いている説明です。
そこにはこうあります。慶応二年(1866年)、代金二万六千両で船齢三十年の外国船を買い、「天保録」と命名した。つまり買ったのは慶応二年、値は二万六千両。しかも新造ではなく、三十年使われた中古船でした。幕末の艦船取得をまとめた研究の表にも、慶応二年の宇和島藩の船として二百四十三トンの鉄製蒸気船が載っていて、このページの二百四十三トンと一致します。
船齢三十年という点は読みどころです。買った時点でおよそ天保七年ごろの建造にあたりますから、「天保録」という名は、その船が生まれた年号から取ったという読み方ができます。原名のペムブロックが、下関で長州藩に撃たれたアメリカ商船と同じ名だという偶然とあわせて、名前にまつわる話が二つ重なった船です。ただし命名の由来そのものを述べた資料は見つかりませんでした。
同じ藩の祥瑞丸とは別の船です
紛れやすいので書いておきます。当サイトには宇和島藩の船として祥瑞丸のページもありますが、こちらは慶応三年取得の六十七トンで、天保録とは別の船です。宇和島市の説明にある「二万六千両で買った船齢三十年の外国船」は天保録の話で、祥瑞丸のことではありません。
蒸気船を自前で造った藩が、一方で三十年落ちの外国船を二万六千両で買っている。前原巧山が安政六年二月に試運転を成功させた国産船と、慶応二年に買ったこの中古船が、同じ藩の海の備えとして並んでいたことになります。造るほうが安く済むわけではなかった、ということでもあります。



