はじめに正直に書いておきます。網戸に、幕末の藩はありません。ここに置かれた網戸藩は十年ほどで消え、城も同じころに廃されました。それでもこの土地を訪ねる意味があると思ったのは、消えたあとに何が来たかのほうが、幕末という時代をよく映しているからです。
千葉県旭市、旧称を網戸(あじと)といいます。雨の日でした。境内に人影はなく、濡れた敷石に雨粒が跳ねていました。

武田を裏切った男が、なぜ下総にいるのか
この寺に祀られているのは木曽義昌です。木曽義仲から十九代目を称する木曽谷の領主で、武田信玄の娘を妻に迎えて武田家に属しながら、天正十年(1582年)に織田方へ寝返りました。武田家滅亡の引き金を引いた一人です。
その義昌が木曽谷を離れるのは天正十八年(1590年)でした。小田原征伐のあとの関東移封で、徳川家康に従って下総国阿知戸へ一万石。同年十二月に三川村へ着き、翌天正十九年(1591年)三月に城へ入ったと伝えられます。生まれ育った谷を追われ、見たこともない海辺の低地に移されたわけです。
五輪塔をはさむ、二基の宝篋印塔

本堂の前に、石造の塔が三基並んでいます。中央が五輪塔、その両脇が宝篋印塔です。旭市の指定史跡「木曽義昌公遺跡供養塔・水葬跡石塔」として昭和五十二年(1977年)一月二十五日に指定されており、所有者は東漸寺になっています。
驚いたのは、周囲が現代の墓地だということでした。石の欄干の向こうには新しい墓石が整然と並び、その先に瓦屋根の家が見えます。四百年前の三基だけが、そこに島のように残っている。しかも花入れの花は新しいものでした。誰かが今も手を入れています。

遺言は、湖への水葬でした
義昌が没したのは文禄四年(1595年)三月十七日、五十六歳。そして遺言により、椿海へ水葬されたと伝わります。土に埋めるのではなく、湖に沈めた。木曽の山で生まれた男の最後の望みが、下総の湖だったことになります。
ところがその椿海は、いまありません。江戸時代の初め、寛文年間(一六七〇〜七一年ごろ)に干拓されて消えています。千葉県の記録によれば、白石治郎右衛門と辻内刑部左衛門が幕府に願い出て、鉄牛禅師が助力し、新川を掘って水を落としました。あとに広がったのが「干潟八万石」と呼ばれる田で、いまの旭市・匝瑳市・東庄町にまたがる約五千百ヘクタールの耕地です。
つまり、義昌が沈められた湖は田になりました。水葬の跡を示す石塔だけが、水のなくなった場所に取り残されて立っています。木曽義昌公史跡公園がそこにあたるとされます。
真理姫については、正直なところ分かりません
供養塔は「義昌及び夫人」を祀るとされます。夫人とは真理姫、武田信玄の娘です。この人については、まったく相反する二つの話が流布しています。ひとつは、義昌が武田を裏切ったときに勝頼によって処刑されたという説。もうひとつは、離縁されて木曽の山中に隠れ住み、正保四年(1647年)に九十八歳で没したという説です。
信頼できる出典でどちらかに決めることはできませんでした。そもそも婚姻そのものが同時代の確実な史料では確認できないという指摘もあります。下総へ義昌に同行したという記述は、どちらの説にも見あたりません。ですから、この供養塔が夫人を含めて祀っているのは、後世になってからの供養と考えるのが素直でしょう。裏切った男と、裏切られた家から嫁いだ女が、四百年ものあいだ並んで供養されている。事実としてはそれだけです。それだけで十分に重い光景でした。
藩は十年で終わりました
義昌の跡を継いだ木曽義利は、叔父の上松義豊を殺害するなどの乱行があったとして慶長五年(1600年)ごろに改易されます。網戸藩は十年ほどで消え、城も同じころに廃されました。応永年間の築城と伝わる網戸城は、東漸寺の一帯にあったとされ、土塁と堀が残ると言われますが、文化財の指定はありません。
では、この土地の幕末は誰が仕切っていたのか
ここからが本題です。藩が十年で消えたということは、この土地には二百六十年以上のあいだ大名が置かれなかったということでもあります。関東の天領と旗本領が入り組む地帯では、支配の実務が代官と、その下請けに落ちていきました。そこで力を持ったのが博徒です。
網戸から数キロの飯岡に、幕末の利根川下流域を仕切った男がいました。飯岡助五郎。寛政四年(1792年)の生まれで、安政六年(1859年)に六十八歳で没しています。文化九年(1812年)ごろに江戸相撲の友綱部屋を辞して飯岡浜へ流れてきた人で、やがて関東取締出役の道案内として十手を預かり、名実ともにこの一帯の親分になりました。
天保十五年(1844年)の大利根河原の血闘、弘化四年(1847年)の笹川繁蔵暗殺。浪曲「天保水滸伝」が悪役として描いたのはこの人ですが、旭市の説明はまったく違う顔を伝えています。助五郎は付近一帯の網元として漁業を経営し、海岸に護岸を築いた人物だった、と。十手を預かる親分であり、浜を守る網元でもあった。藩のない土地では、そういう人間が実質的な統治者になります。
そしてもうひとつ。助五郎の生地は相模国三浦郡公郷村、いまの横須賀市です。のちに横須賀製鉄所が築かれることになる、あの土地でした。房総の博徒と幕末最大の造船所が、同じ地名でつながっている。歴史というのはときどきこういう配線をします。
助五郎の墓は旭市飯岡の光台寺にあります。玉﨑神社には碑が立ち、その前に六十貫の力石が置かれています。助五郎が力比べや人を雇うときの試しに使ったものだと伝えられる石です。定慶寺には笹川繁蔵の首塚があります。
寺のこと
東漸寺は真言宗智山派、山号を殿玉山といいます。創建については、木曽義昌が網戸城へ入ったのちに建てたとする天正十八年(1590年)説と、義昌に招かれた悦道和尚を開基とする文禄二年(1593年)説があり、資料によって分かれます。境内にはほかに、旭市指定の彫刻「懸仏」と「弁財天」があります。いずれも昭和五十六年(1981年)十一月十三日の指定です。
本堂の前に立って気づいたのは、この寺が「敗者を祀る寺」として建てられたわけではない、ということでした。義昌は改易された家の当主ではなく、自分で寺を建てられる立場の領主としてここへ来ています。城を構え、寺を建て、五年で死んだ。その五年のために、四百年の供養が続いている。
歩いてみて思ったこと
幕末をたどる旅で、幕末に藩のなかった土地を歩くのは、はじめは気が引けました。けれども現地に立つと逆のことを考えます。藩がないということ自体が、この土地の幕末の姿でした。大名がいないから代官が置かれ、代官の手が届かないから十手を持った親分が浜を仕切り、その親分が護岸まで築く。教科書に載る幕末は藩と志士の話ですが、日本の多くの土地では、こちらのほうが日常だったはずです。
四百年前に湖へ沈められた領主の石塔と、幕末に浜を仕切った博徒の墓が、数キロの距離で同じ市内にあります。網戸という土地は、その二つを両方抱えたまま、雨に濡れていました。
場所・アクセス・地図
殿玉山東漸寺(真言宗智山派)/千葉県旭市イ二三三七(旧・網戸)。JR総武本線 旭駅から徒歩約二十分、タクシーで約五分。駐車場二十台ほど。境内に旭市指定史跡「木曽義昌公遺跡供養塔・水葬跡石塔」。
木曽義昌公史跡公園は旭市イ二八〇八。水葬の跡とされる場所で、駐車場があります。
飯岡助五郎の墓がある光台寺、碑と力石のある玉﨑神社、笹川繁蔵の首塚がある定慶寺は、いずれも旭市飯岡です。旭駅から千葉交通バスで十八分、「玉さき神社前」下車。
