高畠藩の歩み
江戸後期の高畠藩主「織田信美」は所領の大部分が天童を中心とした村山郡に集中していることを考慮して、居館を「高畠陣屋」から天童に移そうとしました。文政十一年(1828年)五月に幕府からもそれを許され、信美は天保元年(1830年)に陣屋を天童に移しました。このため、以後は天童藩となりました。
陣屋は一度、糠野目へ出ていた
高畠の陣屋は、ずっと高畠城の縄張りの中にあったわけではありません。織田家の陣屋は当初、高畠城の縄張り内に置かれ、のちに糠野目へ移されました。ところが文政九年(1826年)に焼失し、そのあとは高畠城内の旧陣屋に戻って、糠野目陣屋は再建されませんでした。陣屋が焼けた四年後に、天童への移転が実現しています。
飛地の藩でした
領地は置賜郡内の高畠六村(高畠村・小郡山村・泉岡村・塩森村・相森村・柏木目村)、村山郡(天童など)の一部、信夫郡の一部に分散していました。高畠町域のうち織田領以外は上杉氏(米沢藩)が治めており、困窮する織田家を庇護し援助したとも言われます。
もともと高畠は、伊達氏の城下町から上杉領を経て、寛文年間に天領となった土地です。江戸時代には米沢藩預かりの天領が大半を占めたという説明もあります。そこへ明和四年、上野小幡藩から織田家が入ってきました。明和事件に連座して第七代 織田信邦が蟄居となり、跡を継いだ織田信浮が高畠へ移されたのです。このとき織田家は無城大名に降格し、国主格の待遇も廃されています。信浮と信邦の関係は、弟とする資料と養嗣子とする資料があります。
町の表記は「高畑城」
町の指定文化財としての表記は「高畑城」です。高畑城堀跡が昭和五十八年三月十四日の町指定史跡(高畠町大字高畠字荒小路)、『高畑城絵図』が昭和六十年四月十八日の町指定有形文化財(歴史資料)。畠ではなく畑の字を使います。城跡そのものは高畠町立高畠小学校の敷地になっています。
信長の次男・織田信雄の家
高畠藩の織田家は、織田信長の次男・織田信雄(のぶかつ)の子孫です。信雄は伊勢の北畠家に養子に入ったのち、本能寺の変のあとは尾張・伊勢などを治める大名となり、天正十二年(1584)には徳川家康と組んで小牧・長久手で羽柴秀吉と戦いました。その後、秀吉に従いながらも国替えを拒んで改易され、一度はすべてを失います。しかし晩年に家康から大和・上野で五万石を与えられ、その子孫が上野の小幡藩主となりました。明和四年(1767)、小幡藩の織田家は尊王論者の山県大弐をめぐる明和事件に連座し、出羽の高畠へ移されたのです(小幡のことは上里見藩も参照)。
天童の将棋駒と吉田大八
高畠から天童へ移った織田家の天童藩は、苦しい財政に悩みました。幕末、藩の中老・吉田大八は、下級の藩士たちの暮らしを支えるため、内職として将棋の駒づくりを勧めます。「将棋は戦の道を学ぶもので、武士の内職としてふさわしい」と説いたと伝えられます。これが天童の将棋駒の始まりで、いまでは全国の将棋駒の大部分が天童で作られ、天童は「将棋の町」として知られるようになりました。
その吉田大八は、慶応四年(1868)の戊辰戦争で、新政府の奥羽鎮撫総督府の先導役を務めたことから、のちに藩が奥羽越列藩同盟の側に回ると責任を問われ、切腹しています(御牧藩)。信長の子孫の藩の家臣が、いまに続く将棋の町の生みの親となり、幕末の板ばさみのなかで命を落としたのでした。
同じころの日本—シーボルト事件
国外への地図の持ち出し 高畠藩の織田家が天童へ陣屋を移した文政年間の終わり、文政十一年(1828)、長崎のオランダ商館の医師シーボルトが帰国しようとしたとき、国外への持ち出しが禁じられていた日本地図などを持っていたことが発覚しました。シーボルト事件です。
処罰された人々 地図を渡した幕府の天文方・高橋景保は捕らえられて獄死し、シーボルトは国外追放となりました。シーボルトの門人たちの多くも処罰されています。西洋の学問への関心が高まる一方で、幕府はその広がりに神経をとがらせていたのです。
場所・アクセス・地図
高畠城跡
〒992-0351 山形県東置賜郡高畠町高畠1064
幕末には、もう高畠にいません
高畠藩は明和四年(1767年)に成立した織田家の藩です。信長の子孫にあたる家が、上野国の小幡藩から移ってきました。石高は二万石(二万三千石とする資料もあります)。
ところが天保元年(1830年)、陣屋を天童へ移しています。所領の大部分が村山郡—天童のあたりに集中していたためです。文政十一年(1828年)に幕府の許可を得ての移転でした。
つまり幕末の高畠には、もう藩庁はありません。その後の高畠は米沢藩領となり、慶応二年(1866年)には屋代郷がすべて上杉領になっています。
移った先の天童藩は、戊辰戦争で焼かれました
天童藩となった織田家の幕末は苛烈です。慶応四年閏四月四日、庄内軍が天童を攻め、城と城下の南半分およそ二百三十戸が焼き討ちに遭いました。このとき奥羽鎮撫使の先導役を務めていたのが、重臣の吉田大八です。
五月には奥羽越列藩同盟に加わります。吉田大八は同盟から身柄の引き渡しを求められ、六月十八日、天童小路の観月庵で切腹しました。三十七歳でした。九月に降伏し、所領二千石を没収されて一万八千石に減らされています。
高畠に残るもの
高畠城跡は現在、高畠町立高畠小学校の敷地になっています。土塁と内堀の一部が残っており、堀は昭和五十八年に高畠町の指定史跡となりました。『高畑城絵図』も町の指定有形文化財です。



