豊安丸【広島藩 輸送船 幕末軍艦】

豊安丸
藩名 広島藩
藩主 浅野長訓
船種 輸送船
機関 蒸気内車
備砲 0門
材質 鉄製
馬力 126馬力
写真 絵図
豊安丸のイメージイラスト
豊安丸のイメージ(イラスト)。記録にある船の型(輸送船・蒸気内車)をもとに描いたもので、実際の姿ではありません

豊安丸はイギリス鉄製外輪船でイギリス名を「ジアッパン」といいます。慶応二年(1866年)七月に長崎で幕府が買い、のちに広島藩の船となって「豊安丸」と呼ばれました。そして、戊辰戦争では函館戦争に従軍して多くの将兵を蝦夷地へ送りました。

なお、蝦夷掃討軍(新政府軍)の海軍艦隊は甲鉄、春日、陽春、丁卯の軍艦四隻と、飛龍丸、豊安丸、戊辰丸丶晨風丸の運送船四隻の計八隻から成っていました。

目次

所属した広島藩と幕末の動き

この軍艦・豊安丸を運用したのは、安芸の広島藩(浅野家)です。四十二万石の大藩で、洋式の艦船をそろえて海防にあたりました。

広島藩が持っていた艦船

一隻だけを見ていると、その藩が海にどれだけ力を入れていたかは分かりません。当サイトで扱っている広島藩の艦船は三隻で、内訳は輸送船が三隻です。

数のうえで中心になっているのは、戦うための砲艦ではなく人と物を運ぶ船です。幕末の海軍は、兵を運び、米を運び、使者を運ぶ仕事から始まっていました。

広島藩は、長州征討で何をしていたか

豊安丸を持っていた時期の広島藩は、難しい立場にありました。長州と接する大藩として、幕府から長州征討の先鋒を期待される側にいたからです。

広島藩の装備については、ひろしまWEB博物館が興味深いものを紹介しています。長州征討で広島藩が多用したのはゲベール銃で、現存する銃の銃床には「芸武」(芸州講武所)の焼印が残っています。藩が自前の武芸所の印を打って管理していた銃です。

施条銃が戦場を変えていく時期に、ゲベール銃を揃えて長州と向き合う。長州側がミニエー銃を数千挺入れていたことと比べると、装備の世代差がそのまま第二次長州征討の結果に出たことになります。

そして慶応三年には、広島藩は薩摩・土佐と並んで討幕側の動きに加わります。輸送船の豊安丸が動いていたのは、藩が立場を変えていく、まさにその数年でした。

幕末軍艦一覧リスト

幕府のページと、同じ船です

当サイトには豊安丸という江戸幕府のページがあり、同じ一隻を扱っています。原名がジャパンであること、1866年7月に買われたことが、両方で一致します。広島藩が買ったと書かれることもありますが、慶応二年七月十七日に長崎で洋銀十一万ドルを払って買ったのは幕府で、売り主はイギリス商人のオールトでした。土佐藩に乙女丸や夕顔丸を売ったのと同じ人物です。幕府の手から芸州藩へ移った経緯のほうは、分かっていません。

要目

1865年のイギリス建造、四百七十三トン(二百五十五トンとする説もあります)、百二十六馬力の鉄製外輪船です。明治元年十月には広島藩の兵を品川から大坂へ運びました。

箱館へ向かった八隻

先に挙げた新政府軍の艦隊八隻は、軍艦が甲鉄・春日・丁卯丸・陽春丸、輸送船が戊辰丸・晨風丸・飛龍丸・豊安丸です。明治二年三月九日に品川を出ており、徳島藩の戊辰丸、久留米藩の晨風丸と並んで、この船も兵と物を運びました。宮古湾で回天丸が甲鉄に斬り込んだとき、この船は輸送船として艦隊の後ろにいたことになります。

同じ名前の船について

幕末の船は売り買いで持ち主が変わることが多く、同じ名前が別の船に付けられることもありました。当サイトには、豊安丸と同じ(または近い)名前の船のページがほかにもあります。

  • 豊安丸(江戸幕府・輸送船・蒸気内車)—要目(機関・馬力)が同じで、持ち主が移った同じ船とみられます

豊安丸を船の型と持ち主から読む

豊安丸の機関は「内車」、つまり水の中のスクリュー(プロペラ)を回す方式です。推進器が外から見えず砲弾に当たりにくいため、幕末の軍艦の主流になった型です(外輪とスクリュー)。船種は「輸送船」。人や荷を運ぶ輸送船です(軍艦の格)。船体は鉄で造られていました。日本で鉄の船が造れるようになるのは明治以降で、鉄船はすべて外国から買われたものです。

当サイトで紹介している広島藩の船は、この豊安丸を含めて3隻あり、そのうち帆船は1隻です。同じ広島藩の船には、達観丸(輸送船)、震天丸(輸送船)があります。

参考資料:Wikipedia日本語版「豊安丸」、Wikipedia日本語版「幕府海軍」ほか、博物館・自治体の公開資料。資料によって要目や日付が食い違う場合は、本文でその旨を書いています。

持ち主の広島藩—四境戦争での出兵拒否

広島藩の立場 広島藩(浅野家四十二万六千石)は、長州と境を接する大藩です。慶応二年(1866)の第二次長州征討では、幕府軍の最前線にあたる芸州口が広島藩の領内でしたが、藩は家老の辻将曹らの主張で出兵を断り、戦いに加わりませんでした。長州を討つことに大義はないと考えたのです。

同じころの日本 原名ジャパンの船が長崎で売られた慶応二年七月は、四境戦争のさなかで、将軍家茂が大坂城で亡くなった月でもあります。戦いを拒んだ広島藩は、やがて薩摩・長州とともに倒幕の側に立つことになりました。

軍艦全140隻の一覧を見る ›

  • URLをコピーしました!
目次