| 達観丸 | |||
| 藩名 | 広島藩 | ||
| 藩主 | 浅野長訓 | ||
| 船種 | 輸送船 | ||
| 機関 | 帆走 | ||
| 備砲 | 4門 | ||
| 材質 | 木製 | ||
| 馬力 | 0馬力 | ||
| 写真 | 絵図 | ||

1863年12月、イギリスより芸州藩が購入しました。
詳細は不明な点が多いです。
オランダで造られ、イギリスから買った船
幕末明治の艦艇を集めた一覧に、達観丸の行があります。読みは「たっかんまる」。竣工の年は不明、造られたのはオランダ、そして文久三年に広島藩がイギリスから買った、とあります。全長三十二・四メートル、全幅九メートル。オランダで造られた船を長崎のイギリス商館を通して買った、と読めば矛盾はしませんが、建造国と購入先のどちらかが誤りである見込みも消せません。
「千八百六十三年十二月」は、ずれているかもしれません
伝わる記述では購入を千八百六十三年十二月としていますが、ここは気をつけたほうがよさそうです。文久三年は西暦でいうと千八百六十三年一月十九日から千八百六十四年二月七日までにまたがっていて、文久三年十二月一日は千八百六十四年一月九日にあたります。もとの資料が文久三年としか書いていないのに、十二月という月を足して西暦へ置き換えたのだとすれば、実際にこの船が来たのは千八百六十四年の年明けだったことになります。
芸州藩は、明治になっても船を借りていました
広島藩の海の力がどれほどのものだったかを示す記録があります。広島県史の年表に、明治二年十月二十九日、海軍の修業のため政府から借りた軍艦・摂津丸が宇品島に着いた、とあり、明治四年二月十四日にはその摂津丸の返上を申し出ています。新政府の側で戦った藩が、明治になってなお政府から船を借りて海軍を学んでいたわけです。なおこの年表に、達観丸の名は一度も出てきません。
船を出さずに、戦を止めようとした藩です
第二次長州征討のとき、広島藩は幕府から先鋒を命じられながらこれを辞退し、幕府と長州藩のあいだに立って仲介にまわりました。出兵しないと幕府へ通告したうえで、その領内が芸州口の戦場になっています。慶応二年に幕府軍が退くと長州の影響下に入り、慶応三年には薩摩藩と長州に結んで倒幕へ動きました。同じ慶応三年、御手洗から芸州・薩摩・長州の三藩が海路で京都へ向かっており、このとき長州の船に芸州藩と薩摩藩の旗を掲げて偽装しています。もっとも、芸州藩の船は達観丸だけではありません。震天丸と豊安丸があり、明治二年八月二十八日には海軍の演習のため政府へ軍艦の貸与を願い出て、十月二十九日に摂津丸を借り受けています。
達観丸を船の型と持ち主から読む
達観丸は蒸気機関を持たない帆船で、風の力だけで海を渡りました。(帆船と蒸気船の違い)船種は「輸送船」。人や荷を運ぶ輸送船です(軍艦の格)。
当サイトで紹介している広島藩の船は、この達観丸を含めて3隻あり、そのうち帆船は1隻です。同じ広島藩の船には、豊安丸(輸送船)、震天丸(輸送船)があります。
持ち主の広島藩の幕末をふり返ると、大政奉還の建白に加わり、戊辰戦争では新政府側。達観丸も、そうした藩の歩みのなかで使われた一隻です(藩ごとの船と幕末の立場)。
持ち主の広島藩—長州と幕府のあいだで
文久三年の広島藩
達観丸を買い入れた文久三年(1863)、隣国の長州藩は下関で外国船を砲撃し、八月十八日の政変で京都を追われました。長州と境を接する広島藩は、長州と幕府・朝廷とのあいだを取り持つ立場に立たされます。翌年以降、幕府が長州征討の軍を広島に集めると、広島藩は戦いを避けるための周旋に力を注ぎました。
船の役目
瀬戸内海に面した広島藩にとって、洋式の船は藩の物資を運び、京都や大坂との連絡を保つための大切な手段でした。周旋の使者たちも、こうした船で瀬戸内を行き来していました。



