| 震天丸 | |||
| 藩名 | 広島藩 | ||
| 藩主 | 浅野長訓 | ||
| 船種 | 輸送船 | ||
| 機関 | 蒸気内車 | ||
| 備砲 | 5門 | ||
| 材質 | 木製 | ||
| 馬力 | 80馬力 | ||
| 写真 | 絵図 | ||

芸州藩は薩摩藩より10万両を借りて震天丸をイギリスより購入しました。その後、坂本龍馬が震天丸を芸州藩より借り上げて、長崎でライフル銃を1000丁購入し土佐藩へ売り渡したことは有名です。
慶応三年九月十七日に薩長芸の三藩盟約が結ばれ、芸州藩も薩摩と長州の側に立ちます。京都へ藩兵を運ぶ際にも震天丸が使われたと伝えられます。
龍馬の手紙に出てくるのは「藝州蒸汽船」です
坂本龍馬が芸州藩の船を借りて銃を運んだ話には、龍馬自身の手紙が残っています。慶応三年九月二十日、桂小五郎へ宛てた手紙に「手銃一千廷買求、藝州蒸氣船をかり入、本國ニつみ廻さん」とあります。銃を千挺買って、芸州の蒸気船を借りて本国へ積んで回す、という意味です。四日後の九月二十四日、土佐藩の参政である渡辺弥久馬へ宛てた手紙にも「手銃一千挺、藝州蒸汽船に積込候て、浦戸に相廻申候」と書いています。龍馬が五年半ぶりに故郷の浦戸へ帰ったのが九月二十三日ですから、銃を積んだ船で帰ったことになります。
ただし、船の名は書かれていません
気をつけたいのは、龍馬がどちらの手紙でも「藝州蒸汽船」としか書いていないことです。これを震天丸だと特定した史料は、見つかっていません。芸州藩には震天丸のほかに豊安丸もありましたので、どちらだったのかは分かりません。銃の種類も値段も確かめられず、手紙に出てくるのは「手銃」という言葉だけです。
三藩が結んだのは、その三日前でした
日付を並べると見えてくるものがあります。薩摩藩、長州藩、芸州の三藩が盟約を結んだのが慶応三年九月十七日。薩摩からは大久保利通、長州からは木戸孝允と広沢真臣、芸州からは植田乙次郎が出て、兵の輸送や出兵の配置、攻める時期まで決めました。龍馬が芸州の船を借りると書いたのは、その三日後です。盟約が結ばれた直後に、その船が土佐への武器輸送に使われたことになります。なお当ページには以前、薩長同盟が結ばれて芸州藩も加わった、という書き方がありましたが、薩長同盟は慶応二年正月で、芸州が加わったのは慶応三年九月のこの盟約です。一年八か月の隔たりがありますので、書き直しました。
薩摩から十万両を借りた、という話
当ページは広島藩が薩摩藩から十万両を借りて震天丸をイギリスから買った、としています。ところがこの経緯は、広島県立文書館の年表にも広島市の資料にも見あたりませんでした。購入の年月日も、値段も、原名も、造られた国も分かっていません。震天丸は、外部にほとんど記録の残っていない船です。
幕府にも、同じ名前の船があります
当サイトには震天丸のページがもう一つあり、そちらは江戸幕府の船です。震天丸のページには、文久三年三月にイギリスから買った、という一行だけが伝わっています。同じ船が幕府から芸州藩へ移った見込みもありますが、それを示す資料も、別の船だとする資料も見つかりませんでした。
同じ名前の船について
幕末の船は売り買いで持ち主が変わることが多く、同じ名前が別の船に付けられることもありました。当サイトには、震天丸と同じ(または近い)名前の船のページがほかにもあります。
- 震天丸(江戸幕府・輸送船・帆走)—要目が違い、名前が同じ別の船と考えられます
震天丸を船の型と持ち主から読む
震天丸の機関は「内車」、つまり水の中のスクリュー(プロペラ)を回す方式です。推進器が外から見えず砲弾に当たりにくいため、幕末の軍艦の主流になった型です(外輪とスクリュー)。船種は「輸送船」。人や荷を運ぶ輸送船です(軍艦の格)。
当サイトで紹介している広島藩の船は、この震天丸を含めて3隻あり、そのうち帆船は1隻です。同じ広島藩の船には、豊安丸(輸送船)、達観丸(輸送船)があります。
持ち主の広島藩の幕末をふり返ると、大政奉還の建白に加わり、戊辰戦争では新政府側。震天丸も、そうした藩の歩みのなかで使われた一隻です(藩ごとの船と幕末の立場)。
持ち主の広島藩—農兵の部隊・神機隊
神機隊
震天丸が龍馬の銃を運んだ慶応三年(1867)、広島藩では、藩士だけでなく農民や町人の子弟も加えた洋式の部隊「神機隊」が生まれていました。長州の奇兵隊にならった部隊ともいわれます。神機隊は戊辰戦争で東北へ出陣し、とくに上野・磐城方面の戦いで活躍しました。
同じころの日本
この年の九月、広島藩は薩摩・長州と兵を京都へ送る約束を結ぶ一方で、十月には独自に大政奉還の建白も出しています。武力と話し合いの両方に足をかけた広島藩は、新しい時代へ移る道を慎重に探っていたのです。



