| 八雲丸一番 | |||
| 藩名 | 松江藩 | ||
| 藩主 | 松平定安 | ||
| 船種 | スクリュー汽船 | ||
| 機関 | 蒸気内車 | ||
| 備砲 | 8門 | ||
| 材質 | 鉄製 | ||
| 馬力 | 80馬力 | ||
| 写真 | 絵図 | ||

イギリス製で原名はガーゼリ。長30間・幅4間半・337トン。
鉄船の第一八雲丸は当時の新鋭艦で時代を先取りした松江藩の軍艦でした。将軍「徳川家茂」の上洛や、長州戦争で幕府の兵を大阪から広島に輸送するなどの活躍をしました。
戊辰戦争が勃発するとその威力を発揮することなく能登沖で座礁し沈没しました。
八雲丸は、二隻ありました
このページの題が「八雲丸一番」となっているとおり、松江藩には二番もありました。研究者のまとめた表によれば、この藩は文久二年に一番と二番をあわせて十七万二千ドルで買っています。一番は四百四十三トンの鉄製で大砲八門、二番は百六十七トンの木製で大砲四門でした。鉄と木、大小の二隻を一度に揃えたことになります。国立国会図書館には「松江藩海軍歴史年譜 一番及び二番八雲丸の記録」という論文が納められており、二隻があったことはここからも裏づけられます。
なお一番を三百三十七トンとする資料もありますが、先の表は四百四十三トンとしており、食い違います。大砲八門という数のほうは一致します。原名「ガーゼリ」の綴りはわかっていません。
二番のページと、一番の最期
当サイトには八雲丸二番のページもあります。そちらによれば、二番は故障が重なって明治元年六月に売られ、その翌月にこの一番が鉱石を運ぶ途中、能登半島の沖で座礁して沈みました。先に「最期の日取りは確かめられなかった」と書きましたが、当サイトの二番のページにこの記述がありましたので、あわせて記しておきます。
隠岐騒動
隠岐騒動は、慶応四年三月十九日の出来事です。島民およそ三千人が武装して隠岐郡代の陣屋を取り囲み、六か条を突きつけて退去を迫りました。翌二十日、郡代の山郡宇右衛門は藩の船で島を脱け出し、島には自治の政権が立ちます。松江藩が兵を上げて陣屋を取り戻したのは五月十日で、このとき死者十四人、負傷者八人を出しました。自治が続いたのはおよそ八十日です。背景には、隠岐の中村に生まれ孝明天皇と明治天皇の侍講をつとめた国学者・中沼了三の教えがあったといわれます。
八雲丸一番を船の型と持ち主から読む
八雲丸一番の機関は「内車」、つまり水の中のスクリュー(プロペラ)を回す方式です。推進器が外から見えず砲弾に当たりにくいため、幕末の軍艦の主流になった型です(外輪とスクリュー)。船体は鉄で造られていました。日本で鉄の船が造れるようになるのは明治以降で、鉄船はすべて外国から買われたものです。
持ち主の松江藩—隠岐騒動
松江藩と隠岐
八雲丸を持った松江藩(松平家十八万六千石)は、日本海に浮かぶ隠岐の島々も預かっていました。外国船が日本海に姿を見せるようになると、藩は隠岐の守りを固める必要に迫られ、洋式の船を持つことにも力を入れます。
隠岐騒動
ところが慶応四年(1868)三月、隠岐の島民たちは、新政府の時代になったことを知ると、松江藩の郡代を島から追い出し、自分たちで島を治め始めました。「隠岐騒動」と呼ばれます。松江藩は一時兵を出して島を取り戻そうとしますが、新政府の介入で島は松江藩の手を離れました。



