| 鶴港丸 | |||
| 藩名 | 江戸幕府 | ||
| 藩主 | 徳川慶喜 | ||
| 船種 | バーク船 | ||
| 機関 | 帆走 | ||
| 備砲 | 0門 | ||
| 材質 | 木製 | ||
| 馬力 | 0馬力 | ||
| 写真 | 無 | ||

長19間4尺・幅4間3尺・358t。
所属した江戸幕府と、艦隊のゆくえ
この船・鶴港丸を運用したのも、江戸幕府です。幕府が倒れたとき、その海軍が抱えた多くの軍艦は運命の岐路に立ちました。
慶応四年(1868)の鳥羽・伏見の戦いののち、幕府の軍艦の多くは新政府へ引き渡されました。一方で、榎本武揚は主力艦を率いて蝦夷地へ走り、抵抗を続けます。鶴港丸のような船も、そうした激動のなかで去就を分かたれたとみられます。幕府海軍の顛末は幕末の軍艦のページへ。
原名はマシュー・ルース、値段は三万五千メキシコドルでした
この船の記録は、思わぬところに残っていました。イギリスの領事が本国へ送った商業報告のなかに、日本で売られた船の一覧があり、福井県文書館の紀要がその表を引いています。そこに鶴港丸の行があります。日付は千八百六十五年十月七日、アメリカ船、バーク、登録トン数三百五、大砲二門、建造地はアメリカ、木造、値段は三万五千メキシコドル、売った先は幕府。そして原名が、マシュー・ルースです。
売ったのは、長崎のアメリカ商人でした
取り扱ったのはウォルシュ商会でした。アメリカ人のウォルシュ兄弟が安政二年ごろ長崎へ移り住んで開いた商会で、弟のジョン・ウォルシュは長崎に駐在した初代のアメリカ領事でもあります。この商会の名は、もう一つの場面にも出てきます。翌慶応二年、坂本龍馬がつくった“会社”—亀山社中と海援隊で触れた亀山社中が薩摩藩の後ろ盾で太極丸を手に入れたとき、間に入ったのも同じウォルシュ商会でした。幕府も、脱藩した浪士の結社も、長崎では同じ商人から船を買っていたことになります。
要目の数字が、資料で違います
伝わる要目と、領事報告の数字は一致しません。一般には三百五十八トンで備砲なしとされますが、領事報告は三百五トンで二門です。ただし領事報告のほうは登録トン数といって、船の容積をある決まりで測った数字であり、重さそのものではありません。物差しが違えば数も変わりますので、どちらかが誤りとも言い切れません。長十九間四尺・幅四間三尺という寸法を換算すると、長さおよそ三十五・七メートル、幅およそ八・二メートルになります。三百トン級のアメリカ製の木造バークとして、無理のない大きさです。
同じ値段の船が、もう一隻あります
気になることがあります。のちに榎本武揚の艦隊に加わって銚子の沖で沈んだ美賀保丸も、慶応元年六月ごろに長崎で三万五千ドルで買われた船でした。同じ年、同じ値段です。別々の船がたまたま同じ額だったのか、どこかで数字が混ざったのか、わかっていません。美賀保丸のほうは慶応四年八月二十六日に銚子の黒生海岸で沈み、十三人が溺れて亡くなっています。鶴港丸がどうなったかは、分かりません。
鶴港丸を船の型と持ち主から読む
鶴港丸は帆走の船です。機関も石炭もいらない帆船は、藩にとって安く使いやすい運び手でした。(帆船と蒸気船の違い)船種は「バーク船」。後ろのマストだけに縦帆を張る3本マストの「バーク型」の帆装の船です(帆の張り方・軍艦の格)。
当サイトで紹介している江戸幕府の船は、この鶴港丸を含めて39隻あり、そのうち帆船は17隻です。同じ江戸幕府の船には、開陽丸(シップ級フリゲート)、豊安丸(輸送船)、長崎丸(輸送船)、震天丸(輸送船)、高雄丸(砲艦)、龜田丸(スクーナー船)、函館丸(スクーナー帆船)、君澤形丸(スクーナー帆船)などがあります。
同じころの江戸—無血開城
勝と西郷
鶴港丸が幕府の船として慶応四年(1868)を迎えたころ、新政府軍は江戸へ迫っていました。三月十三日と十四日、江戸の薩摩藩邸で、旧幕府の陸軍総裁・勝海舟と新政府軍の参謀・西郷隆盛が会い、江戸城を戦わずに明け渡すことが決まります。四月十一日、江戸城は新政府軍に引き渡されました。
海軍の行方
ところが旧幕府の海軍を率いる榎本武揚は、軍艦を新政府に引き渡すことを拒みました。艦隊の一部は引き渡されましたが、開陽丸などの主力は榎本のもとにとどまり、八月には品川沖を脱して北へ向かいます。幕府の船の運命は、江戸城の明け渡しのあとで大きく分かれていきました。



