藩の歩み
庄内藩初代藩主「酒井忠勝」の死去に際し、2代藩主「酒井忠当」への遺言に基づき、忠勝の七男「酒井忠解」が、正保四年(1647年)庄内藩領のうち田川郡内の大山(鶴岡市)で新田一万石を分与され、陣屋を構え立藩しました。寛文八年(1668年)、藩主死去に伴い嗣子がなく収公され幕府領となりました。
本家・庄内藩との関係
大山藩は、出羽の庄内藩(酒井家)の支藩で、酒井家の分家が一万石を領しました。
ただし、この藩は幕末まで続いた藩ではありません。藩主・酒井忠解に世継ぎがなく、幕末を待たずに廃藩となりました。その地は本家の庄内藩には戻されず、幕府領となりました。幕末の庄内藩の動きは本家のページをご覧ください。
廃藩のあと—庄内藩に囲まれた、天領の酒の町
大山藩は正保四年(1647年)、酒井忠勝の遺領から一万石を分けられた酒井忠解が立てました。ところが忠解は寛文八年(1668年)に急逝し、子がなかったため翌年に廃藩となります。
ここからが面白いところです。廃藩後の大山は庄内藩に戻されず、幕府の直轄領—天領となりました。そして幕末までそのままです。つまり庄内藩領にぐるりと囲まれた、天領の飛び島だったことになります。
その大山が何で知られたかというと酒です。町全体が「大山酒」という統一の名で酒を造り、情報と技術を共有していました。全盛期には四十軒ほどの酒蔵が軒を連ね、広島の西条、神戸の灘と並ぶ酒どころと称されています。
藩の統制が及ばない天領だったことが効いていたのかどうか—そう考えたくなりますが、その因果を明記した資料は見つけられませんでした。正直に書いておきます。
幕末の建物もあります。安政二年(1855年)、酒造の守護神である松尾神社の現在の社殿が再建されました。
戊辰戦争では、庄内藩が清川口・大網口・吹浦口で防戦しています。大山を舞台にした戦闘の記録は見当たらず、戦場の外だったとみられます。
いまも四軒の酒蔵が残ります。出羽ノ雪、栄光冨士、大山、羽前白梅です。渡會本店の出羽ノ雪酒造資料館では、古文書や酒造の道具を見ることができます。
大山公園は、昭和のはじめに加藤嘉八郎が二百数十名の地主から土地を買い取って造り、町へ寄付したものです。いまも指定管理者は「大山自治会」—この町の自治の伝統が、こういうところに出ています。
左沢藩(左沢楯山城)/酒井家一万二千石:酒井直次 幕末前に出羽松山藩へ併呑
徳川四天王・酒井忠次の孫の家
大山藩を分けた本家の庄内藩酒井家は、徳川四天王の筆頭・酒井忠次の家です。忠次は家康の祖父の代から松平家に仕えた重臣で、長篠の戦いでは鳶ヶ巣山砦への奇襲を進言して勝利に貢献しました。その子・家次を経て、孫の忠勝が元和八年(1622)に出羽の庄内十四万石に入り、鶴ヶ岡城を本拠としました。大山藩の酒井忠解は、この忠勝の七男です。
領民が国替えを止めた庄内藩
庄内藩の幕末を語るうえで欠かせないのが、天保十一年(1840)の「三方領知替え」です。幕府は、庄内藩を越後長岡へ、長岡藩を武蔵川越へ、川越藩を庄内へ移すという命令を出しました。財政に苦しむ川越藩を豊かな庄内へ移すための策だったとされます。
これに対し、庄内の農民たちは「藩主を国替えさせないでほしい」と江戸へ大挙して訴え出ました。百姓が領主の留任を求めるという異例の運動は諸大名の同情も集め、翌天保十二年、幕府は命令を撤回します。幕府の国替え命令が領民の反対で取り消されたのは、ほとんど例のないことでした。この結びつきの強さは、戊辰戦争で庄内藩が最後まで新政府軍を領内に入れず戦い抜いたことにもつながっていきます。
大山は、その庄内藩の領地に囲まれながら、幕府領として別の道を歩んだ土地でした。
婚約者を残して急死した殿様—庄内の分家・大山藩
庄内酒井家の分家
大山藩は、出羽庄内藩・酒井家の分家です。本家の酒井家は徳川四天王・酒井忠次の家で、家格は譜代です。正保四年(1647年)、庄内藩主・酒井忠勝の子・忠解(ただとき)に一万石が分けられて大山藩ができました。
鷹狩りの最中に、二十六歳で
忠解は肥前平戸藩主・松浦重信の娘と婚約していましたが、寛文八年(1668年)、鷹狩りの最中に急死したとされます。二十六歳でした。跡継ぎがいなかったため大山藩は廃され、領地は幕府領になりました。
大山騒動と、庄内藩への編入
大山川流域の二十一か村(大山・馬町など)は、その後長く幕府領として治められました。弘化元年(1844年)には、幕府領から庄内藩の預かり地に移されることに反対する「大山騒動」が起き、多くの農民が処罰されています。元治元年(1864年)、大山はついに庄内藩領に組み込まれました。大山はいまも鶴岡市の酒どころとして知られています。
藩が消えたあとも、本家との距離が問われた
大山藩そのものは二十年ほどで消えましたが、その領地が本家の庄内藩に入るかどうかは、二百年後まで村人の大問題でした。殿様の急死から始まった幕府領の歴史が、幕末の騒動へとつながっていく。藩の歴史は、藩が消えたところで終わらないのだと思います。
庄内酒井家のもう一つの支藩
庄内藩には、大山藩のほかに出羽松山藩という支藩がありました。松山藩は幕末まで続き、戊辰戦争では付家老の松森胤保が庄内藩の参謀を務めています。早く消えた大山藩と、最後まで本家と戦った松山藩を並べて読むと、支藩の運命の違いがわかります。



