【藩名】
左沢藩
【説明】
元和8年(1622年)山形の最上氏の改易によって、庄内藩成立と同時に「酒井忠勝」の弟「酒井直次」が村山郡左沢で1万2,000石を与えられ左沢藩が成立しました。左沢藩主「直次」は当初居城を「左沢楯山城」としたが、後に小漆川に築城を始め、城下町の造営に着手しました。
左沢藩は藩主直次が寛永8年(1631年)3月10日に嗣子なく没したため改易の上、幕府領となりました。この左沢領は後に庄内藩の預地となり、寛永9年(1632年)に「加藤忠広」の改易庄内藩預かり処分に伴い庄内藩丸岡領1万石と交換の形で庄内藩領となりました。
さらに慶安元年(1648年)には出羽松山藩の分与成立により松山藩領となりました。
【廃藩のあと——舟運の町が、軍船の出撃港になった】
左沢藩は元和八年(1622年)、酒井忠勝の弟・直次が入って成立しました。直次は小漆川城を新たに築き、それまでの楯山城は廃されます。
幕末の大江町域は分割されていました。左沢と本郷の地区は松山藩領——のちに庄内藩領——で、七軒地区は柴橋代官所が管轄する天領です。
ここに幕末の事件が絡んできます。慶応四年二月、庄内藩は江戸取締の功として幕府領七万四千三百石余を預かりました。その中身が柴橋代官所の管轄分です。
そして慶応四年四月二日、柴橋事件が起こります。資金に窮した新政府軍の先遣隊が、その預かり米の所在をつかんで柴橋陣屋を急襲しました。ところが倉は空だったのです。庄内藩が最上川の川船で先に運び出していました。この失敗が、庄内藩を征討すると決める一因になったといわれます。
そして左沢が舞台になります。閏四月三日の夜半、左沢を発った庄内側の民兵隊が最上川を下り、四日の払暁に落合の山形軍を急襲しました。隊長の大久保伝平、司令士の赤星守人以下七名が戦死、五名が負傷しています。舟運で栄えた町が、そのまま軍船の出撃港として使われたことになります。
左沢楯山城跡は平成二十一年(2009年)に国の史跡となりました。南北朝のころ大江氏一族の左沢元時が築いた城で、「最上川の水運で生活する人々を支配する川の城」と位置づけられています。三の丸のあたりが史跡公園として整備され、最上川舟唄の碑も立ちます。
さらに平成二十五年(2013年)、「最上川の流通・往来及び左沢町場の景観」が国の重要文化的景観に選定されました。山形県内では初めてです。原町通り沿いには、元造り酒屋などの店蔵が並ぶ町並みが残っています。
大山藩(庄内藩支藩)/酒井家1万石:酒井忠解 嗣子がなく幕末前に廃藩
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