長野県飯田市の追手町。飯田城の本丸跡は、いま長姫神社の境内になっています。

正直に言えば、城の遺構はほとんど残っていません。石垣も天守もなく、あるのは神社と、木立と、いくつかの石碑だけです。ですがその石碑のひとつに、幕末の飯田藩がどういう藩だったのかが刻まれていました。しかも文章を書いたのは、あの小栗忠順の師です。
まず、本丸跡に立ってみます

飯田市観光協会の説明板によれば、この一帯が飯田城の本丸です。長姫神社、柳田館、日夏館の用地にあたります。東西・南北ともに百メートル、土塀で囲まれ、本丸御殿を中心に七棟の建物が四百余年に及んでいたと書かれています。飯田城は長姫城とも呼ばれました。
いま残っている遺構は——柳田館と美術館の間の空堀跡、神社裏の石積土塁跡、そして門一帯。それだけです。
説明板には気になる一文もありました。「大杉が生い茂り陰気で建物が大き過ぎ、城下町より離れ過ぎることで、堀氏中期以後は公行事以外に使われなかった」。本丸に殿様が住まなくなっていた、ということです。

その大杉は、いまも境内を覆っています。
安政六年の石碑があります
境内でいちばん目を引いたのが、この説明板でした。

「観耕亭碑」。建てられたのは安政六年(一八五九年)です。
安政六年がどういう年か。ペリー来航から六年後、安政の大獄のさなか、桜田門外の変の前年です。吉田松陰が処刑されたのもこの年でした。
碑文の内容
飯田市教育委員会の説明板が、碑文の中身を要約しています。
飯田城主堀親義侯は、文武の業にはげみ折を見ては城外に出て山水を賞することを楽としていたが、城外で働いている農民の邪魔になるので城中に小亭を作り、そこより城外の農民たちが農耕にいそしんでいるのを眺め楽しんだ
殿様が出歩けば、働いている農民の邪魔になる。だから城の中に小さな亭を作り、そこから眺めることにした——という話です。
そして碑文はこう結びます。「賢者の楽と言うべく、まさに仁政の基とすべきである」と。
殿様が出歩けば領民に迷惑がかかる。だから城内から眺めることにした——それを仁政の基だと刻んだ石碑が、幕末の飯田城に建てられたわけです。
碑文を書いたのは、小栗忠順の師でした
ここが今回いちばんの発見です。説明板には、碑に関わった三人の名が挙げられています。
- 篆額——安藤正宜の筆
- 碑文——昌平黌教官の安積信(艮斎)の作
- 書——高橋豊珪
安積艮斎(あさか ごんさい)。寛政三年(一七九一年)に生まれ、万延元年(一八六一年)に没した儒学者です。嘉永三年に六十歳で昌平坂学問所の教授となり、ペリー来航時にはアメリカ国書の翻訳に携わりました。
神田駿河台の私塾「見山楼」
艮斎は文化十一年(一八一四年)、江戸の神田駿河台に私塾「見山楼」を開いています。
この場所が大事なところです。小栗忠順の屋敷も、神田駿河台にありました。だから小栗は八歳で、歩いてこの塾に通うことができたのです。そして見山楼で出会ったのが、生涯の盟友となる栗本鋤雲でした。のちに横須賀製鉄所の話を持ちかけ、「土蔵付売据」という小栗の言葉を書き留めることになる人物です。
見山楼の門人には、ほかにこんな名前が並びます。吉田松陰、高杉晋作、岩崎弥太郎、清河八郎。全体では二千人以上が学んだといわれます。
その安積艮斎が、亡くなる一年余り前に、飯田城の石碑に文章を寄せました。二〇二七年のNHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』では、この安積艮斎を中村雅俊が演じます。小栗の師として登場する人物の文章が、飯田城の本丸跡に刻まれているわけです。
その五年後、飯田藩は二千石を減らされます
安政六年に「仁政の基」を刻んだ堀親義に、大きな試練が訪れます。元治元年(一八六四年)十一月、水戸の天狗党が飯田藩領に入りました。筑波山で挙兵し、京都をめざして西へ向かっていた一団です。
飯田藩の対応は——城を固めるだけで、攻撃しませんでした。清内路の関所を、そのまま通しています。幕府の処分は厳しいものでした。同年十二月、堀親義は講武所奉行を解任され、二千石を減封されます。
ただし、見逃したのには理由がありました
この一件には裏があります。伊那谷は平田国学の一大拠点でした。地元の平田門人だった北原稲雄とその弟が、飯田の城下が戦火に遭わないよう天狗党の進路を調整し、清内路峠を越えて中山道へ導いています。そして飯田藩の当局は、これに協力して領内の通過を認めていました。
つまり無策ではなく、城下を守るための判断だったことになります。ですが幕府から見れば、賊を通した藩です。天狗党はこのあと清内路から馬籠へ抜け、翌日に中津川宿へ入りました。中津川では宿の人々が五平餅やきしめんでもてなしています。伊那から東濃にかけて、平田門人のネットワークがつながっていた証拠です。
そして、城は徹底的に壊されました
慶応四年(一八六八年)一月、元家臣の讒言をきっかけに家臣団が反発。親義は二月に隠居届を出し、三月に隠居が認められます。養子の堀親広が家督を継ぎました。
維新後、飯田城は徹底的に破壊されます。建物は解体され、石垣は崩され、堀は埋められました。その理由について、飯田市は公式サイトでこう説明しています。「堀氏が佐幕派だったため維新後に報復を受けた」と。
取り壊しを免れたのが、いま長野県飯田合同庁舎の敷地に建つ桜丸御門——通称「赤門」です。宝暦四年(一七五四年)の建造で、昭和六十年に飯田市の有形文化財に指定されました。長野県内で建築当時と同じ場所に建つ城門は、四例しかないそうです。
石碑だけが残りました
遺構が少ないことを、最初はがっかりして眺めていました。ですが説明板を読んで、考えが変わりました。建物は壊されても、石碑は残っていたのです。本丸跡にはもうひとつ、長姫神社の由来碑があります。書いたのは三条実美——七卿落ちで都を追われ、維新後は太政大臣となったあの公卿です。
安積艮斎と三条実美。幕府側の学問の頂点にいた人と、朝廷側の中心にいた人。その二人の文字が、壊された城の跡に並んで立っています。
訪ねるなら
- 飯田城本丸跡(長姫神社)——長野県飯田市追手町。観耕亭碑、長姫神社由来碑
- 桜丸御門(赤門)——長野県飯田合同庁舎の敷地内。飯田市有形文化財。春に開門式が行われます
- 飯田市美術博物館——二の丸跡。平成元年の開館
- ほかに八間門、薬医門、脇坂門、桜丸西門が市内に移築されて残っています
