高橋 勝右衛門【土佐藩出身 海援隊士 幕末亀山社中】

高橋 勝右衛門
出身 土佐藩
職名

高橋勝右衛門は土佐藩士出身で海援隊の出崎官です。
後藤象二郎の片腕となり、土佐藩長崎商会の開設に当った高橋勝右衛門は、
くみの子、あるいはその一族の者といわれます。のち、土佐藩神戸商会の開設にも当ります。
高橋勝右衛門の妻は栗尾大作の妹。

高橋 勝右衛門【土佐藩出身 海援隊士 幕末亀山社中】

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この隊士について

本文に記した「出崎官」という役職名、および妻の兄とされる「栗尾大作」については、今回あらためて調べた範囲では確認できませんでした。高橋勝右衛門という人物名そのものも、公開されている資料では見つかっていません。参考にした書籍以外の裏付けが取れていない、とお含みおきください。

なお長崎土佐商会(開成館貨殖局長崎出張所)は慶応三年二月ごろに後藤象二郎が開設したとされ(異説あり)、慶応三年三月に着任した岩崎弥太郎が事実上の責任者になっています。

亀山社中と海援隊について

亀山社中は慶応元年、神戸海軍操練所の廃止で行き場を失った坂本龍馬ら二十余名が、薩摩藩の保護と長崎の豪商・小曽根家の援助を受けて長崎の亀山に置いた組織です。薩摩藩から一人あたり月三両二分が支給されていました。

ただし「亀山社中」という名称は当時のものではありません。同時代の史料に見えるのは「社中」という名乗りだけです。結成時に龍馬が長崎にいなかった可能性も指摘されており、実際に立ち会ったのは近藤長次郎や高松太郎らだったとする研究もあります。

慶応三年四月、龍馬の脱藩が赦免されて隊長となり、土佐藩に付属する外郭機関「海援隊」と改称しました。海援隊約規は目的を「運輸、射利、投機、開拓、本藩の応援」と定めており、射利——つまり利益追求を堂々と掲げていたのが特徴です。

隊士の人数は資料により異なり、辞典類は約五十名としています。同時代の隊士名簿にあたる史料は確認されていません。残っているのは『海援隊日史』『海援隊商事』(いずれも京都国立博物館蔵・重要文化財)などの記録類で、名簿ではありません。

そのため周辺の隊士は、生没年すら分からない人が少なくありません。海援隊が脱藩者を主体としたことも、記録が残りにくい理由の一つです。藩の人別帳や履歴から外れてしまうためです。

くわしくは海援隊士全56名情報をご覧ください。

▼ ほかの隊士もまとめて見る
亀山社中・海援隊の隊士一覧——龍馬がつくった「会社」に集まった五十四人

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