| 長谷部 卓爾 | |||
| 出身 | 越前藩 | ||
| 職名 | |||
長谷部卓爾は越前藩出身の海援隊士です。
幕末・明治初期の政治家。弘化元年生まれ。勝海舟門下に入り航海術を学び海援隊にも参加しました。
慶応4年4月、箱館裁判所勤務を命じられます。のち、開拓大書記官となり、さらに、
山形県知事を経て貴族院になります。
明治43年没。

この隊士について
長谷部卓爾の経歴は、福井藩の『藩士履歴』(松平文庫)に記録が残っています。福井県文書館は「神戸海軍操練所で学んだのちに官僚として故坂本龍馬の北海道開拓計画を支えた」人物として紹介しています。勝海舟のもとで学んだことは裏付けがあります。
いくつか補足します。生年は西暦では一八四四年ですが、和暦では天保十五年五月二日にあたります(弘化への改元は同年十二月)。維新後は開拓使御用掛から開拓大書記官まで進み、明治二十二年十二月から二十七年一月まで第四代の山形県知事、明治三十八年には貴族院の勅選議員となって死去まで務めました。明治四十三年六月十二日没。
ただし「海援隊士だった」という点については、裏付けが弱いのが実情です。福井県文書館は海援隊とは書いておらず、神戸海軍操練所で学んだ人物として扱っています。
亀山社中と海援隊について
亀山社中は慶応元年、神戸海軍操練所の廃止で行き場を失った坂本龍馬ら二十余名が、薩摩藩の保護と長崎の豪商・小曽根家の援助を受けて長崎の亀山に置いた組織です。薩摩藩から一人あたり月三両二分が支給されていました。
ただし「亀山社中」という名称は当時のものではありません。同時代の史料に見えるのは「社中」という名乗りだけです。結成時に龍馬が長崎にいなかった可能性も指摘されており、実際に立ち会ったのは近藤長次郎や高松太郎らだったとする研究もあります。
慶応三年四月、龍馬の脱藩が赦免されて隊長となり、土佐藩に付属する外郭機関「海援隊」と改称しました。海援隊約規は目的を「運輸、射利、投機、開拓、本藩の応援」と定めており、射利——つまり利益追求を堂々と掲げていたのが特徴です。
隊士の人数は資料により異なり、辞典類は約五十名としています。同時代の隊士名簿にあたる史料は確認されていません。残っているのは『海援隊日史』『海援隊商事』(いずれも京都国立博物館蔵・重要文化財)などの記録類で、名簿ではありません。
そのため周辺の隊士は、生没年すら分からない人が少なくありません。海援隊が脱藩者を主体としたことも、記録が残りにくい理由の一つです。藩の人別帳や履歴から外れてしまうためです。
くわしくは海援隊士全56名情報をご覧ください。
▼ ほかの隊士もまとめて見る
亀山社中・海援隊の隊士一覧——龍馬がつくった「会社」に集まった五十四人
