勝間 桂三郎【海援隊士 幕末亀山社中】

勝間 桂三郎
出身 不明
職名

勝間桂三郎は龍馬暗殺前後の海援隊員で詳しいことはわかっていません。

しかし、新隊長「長岡謙吉」を中心とした海援隊として宮地彦三郎等同志十二人を結集し、旧幕領だった塩飽諸島と小豆島東部の三か村を押さえています。勝間桂三郎はその時のメンバーの一人で大半が土佐藩の出身者でした。

こうした十二名の同志を得た長岡謙吉は、慶應四年一月・弟の長岡謙次郎を加えて、讃岐の国丸亀へ出向きました。これが龍馬の死後の海援隊です。讃岐高松の松平家、伊予久松家の両家は徳川幕府の親藩だったところから、鳥羽・伏見の戦いでは幕府軍と行動を共にしました。

従って、朝敵の烙印を押され、一月十一日には土佐藩に対して両藩征討の朝命が下りました。こうした状況を知った長岡謙吉は、海援隊を率い高松へ赴き、土佐藩の本隊の到着前に高松藩主・松平頼聡を恭順させ、無血開城に導いています。

また、長岡謙吉が結成した讃岐諸島の治安維持部隊は塩飽諸島の平定をおこない「問民」と称される土民と、「人名」と称される特権民との間に生じていた紛争問題を解決し、ここで海援隊は島からの志願者を集め、航海訓練や軍事訓練を施しました。

ここで海援隊は諸島に善政をしいたようで、長岡は京都の近江屋新助にあてた手紙で「隊中同志大競いて、昼夜無間断文武両道に励み居候、島中の諸民は活き仏さまとて拝み申候」と伝えています。

その後の勝間桂三郎の詳細は不明です。

勝間 桂三郎【海援隊士 幕末亀山社中】

目次

勝間桂三郎の生きた時代—主のいなくなった島々

鳥羽伏見のあとで 慶応四年(1868)正月、鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍が敗れると、西日本各地の幕府の領地では、治める役人がいなくなる事態が起きました。塩飽諸島もその一つで、島を預かっていた幕府の役人は姿を消します。放っておけば、島の船や人を他の勢力が奪い合うおそれもありました。

海援隊の派遣 そこで土佐藩は、海援隊の長岡謙吉らに命じて塩飽へ兵を送り、島を一時預かることにしました。勝間桂三郎もこの十二人の一人です。海援隊士たちは島の自治を尊重して治めたため、島の人々から深く感謝され、のちに神社に祀られることになりました。

参考資料:Wikipedia日本語版「海援隊」「亀山社中」、高知県立坂本龍馬記念館・長崎市亀山社中記念館の公開資料ほか。複数の資料を読み比べ、運営者の言葉でまとめています。

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新政府へ出した建白書に、名を連ねています

慶応四年二月、海援隊の名で新政府へ建白書が出されました。その連署に石田英吉、長岡 謙吉、勝間桂三郎、島田 源八郎、佐々木多門の五人の名が並んでいます。龍馬が死んでまだ三か月、鳥羽・伏見が終わって一か月という時期です。隊長を失った海援隊が、できたばかりの政府に向けて自分たちの考えを述べようとしていたことになります。この五人のなかに名があるということは、隊のなかで相応の位置にいたということでしょう。

二か月後には、讃岐の島を治める辞令にも名があります

同じ年の四月十二日、土佐藩が長岡謙吉へ交付した讃岐の島々の統治を命じる辞令にも、この人の名が並びました。桂井 隼太のページに十三人の名簿を挙げてありますが、そちらでは「勝間圭三郎」と書かれていて、桂と圭が入れ替わっています。同じ年の二月と四月の文書で字が違うわけで、隊士の名がこうして揺れるのは珍しいことではありません。

分かったのは、この二つだけです

建白書の連署と、島の辞令の名簿。この人について確かめられたのは、その二か所に名があるということだけでした。読み方も出身も、いつ隊に入ったのかも、維新後の消息も分かりません。それでも二か月のあいだに二度、隊の公の文書に名が出てくる人です。名前しか残らない隊士のなかでは、まだ足跡のたどれるほうになります。

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