陽春丸【秋田藩 砲艦 幕末軍艦】

陽春丸
藩名 秋田藩
藩主 佐竹義堯
船種 砲艦
機関 蒸気内車
備砲 9門
材質 木製
馬力 100馬力
写真 スケッチ
陽春丸のイメージイラスト
陽春丸のイメージ(イラスト)。記録にある船の型(砲艦・蒸気内車)をもとに描いたもので、実際の姿ではありません

1864年にアメリカで建造され、秋田藩に売却されます。原名カガノカミ号。後、明治政府に徴発され函館戦争に参加しました。先ず、陸兵を品川から輸送、矢不来、弁天台場砲撃を行いました。

原名は、アメリカ海軍の砲艦サガモアです

この船の原名について、伝わる記述では「カガノカミ号」としていますが、正確には違います。もとはアメリカ海軍の蒸気砲艦サガモアで、千八百六十一年にマサチューセッツで造られ、同じ年の十二月七日にボストン海軍工廠で就役しました。千八百六十四年十二月一日に退役し、翌千八百六十五年六月十三日にニューヨークで売られています。カガノカミという名は、日本側が手に入れたあとの名として外国の船舶登録に残っているものです。ただし英語の資料は「サガノカミ」、つまり佐賀守と記しており、加賀守か佐賀守かで食い違っています。どちらが正しいかは分かりませんでした。

買った年も、資料で割れています

久保田藩がこの船を手に入れた年も、はっきりしません。慶応四年七月に、蒸気船を持たなかった藩が戦に備えて函館のアメリカ人から六万七千五百両で買った、とする記述と、慶応元年に買ったとする記述があります。排水量六百九十一トン、水線長四十八・二六メートル、幅八・五三メートル、四百馬力、速さ十ノット、乗員百二名。中古とはいえ、アメリカの海軍が実際に戦争で使った船です。

箱館へ行きました

明治二年三月二十五日、宮古の湾で榎本艦隊の回天丸に襲われた新政府の船のなかに、この陽春もいました。四月九日には乙部へ部隊を上陸させ、砲撃戦を行っています。この日、海陸軍参謀の山田顕義が率いる新政府軍千五百名が乙部に上がりました。四月二十九日の矢不来の戦いでは、陸軍参謀の太田黒惟信が千六百名で三方から攻め、旧幕府軍は艦砲射撃で多くの死傷者を出して総崩れとなります。旧幕府軍の戦死者は百六十名。五月十一日の箱館湾の海戦にも加わりました。ただし矢不来を撃ったのが陽春だったと明記した資料は見つかっていません。艦隊にはいましたので、可能性はあります。

最後はダイミョウと名を変えました

明治二年八月十四日に久保田藩へ引き渡され、明治三年には半官半民の廻漕会社によって東京と大阪のあいだで走りました。その年の暮れに売られ、アメリカ人の持ち船となって「ダイミョウ」と名を変え、極東で使われています。そのあとの消息は分かっていません。

目次

陽春丸を船の型と持ち主から読む

陽春丸は船尾のスクリューで進む蒸気船で、当時の言葉でいう「内車」の船でした。推進器が外から見えず砲弾に当たりにくいため、幕末の軍艦の主流になった型です(外輪とスクリュー)。船種は「砲艦」。沿岸を守る小型の砲艦です(軍艦の格)。

当サイトで紹介している秋田藩(久保田藩)の船は、この陽春丸を含めて2隻あり、そのうち帆船は1隻です。同じ秋田藩(久保田藩)の船には、福海丸(スクーナー船)があります。

持ち主の秋田藩—平田篤胤のふるさと

国学の秋田

秋田藩は、江戸時代後期の国学者・平田篤胤のふるさとでもあります。篤胤は秋田藩士の家に生まれ、江戸に出て国学を学び、日本の古い神々や天皇を尊ぶ学問を広めました。その教えは幕末の尊王攘夷運動に大きな影響を与え、各地の志士や豪農たちが門人となっています。篤胤は晩年に秋田へ戻され、この地で亡くなりました。

同じころの日本

陽春丸が秋田藩の船となる四年前、元治元年(1864)は、池田屋事件・禁門の変・第一次長州征討と、尊王攘夷派が大きく後退した年です。平田国学を受け継ぐ秋田藩の勤王派は、のちの戊辰戦争で藩を新政府側へと導いていきます。

軍艦全140隻の一覧を見る ›

  • URLをコピーしました!
目次