伊予吉田藩(宇和島藩支藩)/伊達家3万石:伊達宗敬 幕末時は本家宗城と不仲だったため佐幕派だった吉田藩

伊予吉田藩(宇和島藩支藩) 伊達家3万石 最後の藩主 伊達宗敬

伊予吉田藩(宇和島藩支藩)

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藩の歩み

伊予吉田藩は、明暦三年(1657年)七月二十一日、宇和島藩の初代藩主・伊達秀宗の五男・宗純が、本家から三万石を分けられて立てた支藩です。三河の吉田藩と区別するため「伊予吉田藩」と呼ばれます。藩庁の陣屋は、いまの宇和島市吉田町の立間尻に置かれました。

この分与には本藩と吉田藩との間で多くの確執があったとされます。もともと十万石の宇和島藩から三万石を分与してしまうと七万石大名となり、幕府の定める大名としての家格が下がることになるからです。結局、彦根藩主「井伊直孝」の仲裁により三万石分与は果たされましたが、吉田伊達家と宇和島宗家は領地の帰属を巡って激しく対立しました。

寛政六年(1794年)十一月十三日、藩は学問を盛んにするため藩校の時観堂を開き、森退堂を教授に迎えました。幕末の八代藩主・伊達宗孝は、宇和島藩の伊達宗城の実の弟でありながら兄と仲が悪く、幕府寄りの立場をとりました。それでも戊辰戦争ののちは、兄の取りなしによって新政府から許されています。

明治四年(1871年)七月十四日の廃藩置県で吉田県が置かれましたが、同じ年の十一月十五日には県の統合で廃され、宇和島県・大洲県・新谷県とともに新しい宇和島県となりました。その後、神山県を経て愛媛県に入っています。

本家・宇和島藩との関係

伊予吉田藩は、伊予の宇和島藩(伊達家)の支藩です。伊達家の分家が三万石を領しました。

本家の宇和島藩が名君・伊達宗城のもとで新政府方に近い動きを見せたのに対し、吉田藩は宗城と折り合いが悪く、幕末には佐幕的な立場をとりました。同じ伊達一門でありながら、本家と異なる道を歩んだのです。最後の藩主は伊達宗敬です。宇和島の支藩でした。

家督を譲ることで許された藩—本家の仲裁が救った吉田藩

伊予吉田藩は、宇和島藩から分かれた三万石の支藩です。藩主は本家と同じ伊達家で、城を持たず陣屋を構える陣屋大名でした。幕末、この小さな藩は政治的な立場を誤り、そこから本家の力添えで立ち直るという、支藩ならではの道をたどります。

佐幕に傾いた八代藩主

八代藩主の伊達宗孝は、幕府を支持する立場をとりました。ところが本家の宇和島藩主・伊達宗城は、公議政体を唱えて新政府の中枢に近い位置にいた人物です。同じ伊達家で方針が正面から食い違ったことになり、王政復古後、吉田藩は新政府から責めを受ける立場に置かれました。

このとき収拾にあたったのが宗城でした。伝えられるところでは、宗孝が家督を嗣子に譲ることを条件に、藩そのものは存続を認められたといいます。慶応4年(1868年)7月、伊達宗敬が家督を継ぎ、吉田藩は新政府のもとで存続しました。責任の取り方として当主の交代を差し出す—本家が後ろ盾になれる支藩だからこそ成り立った決着でした。

短い生涯だった最後の藩主

宗敬は嘉永4年(1851年)生まれで、家督を継いだときはまだ十代の後半です。明治2年(1869年)の版籍奉還で藩知事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県を経て東京へ移りました。しかし明治9年(1876年)に二十代の若さで亡くなっています。明治17年(1884年)の華族令のときにはすでに世を去っていたため、子爵を授けられたのは子の伊達宗定でした。

時観堂という藩校

吉田藩の藩校は時観堂です。寛政6年(1794年)の創立とされます。明治2年には文武館と改称され、藩がなくなるまで続きました。三万石の陣屋大名としては早い時期の藩校で、学問を藩の支えに据えようとした姿勢がうかがえます。

吉田藩の陣屋跡と時観堂跡は、いずれも昭和49年(1974年)に宇和島市の史跡に指定されています。廃藩後は吉田県が置かれ、すぐに宇和島県と合併し、神山県を経て愛媛県となりました。同じ伊達家でも、本家の宇和島藩は宗城のもとで伊予の政局を動かす側にあり、支藩の吉田は動かされる側にありました。その落差が、この藩の幕末をいちばんよく表しています。

浅野内匠頭を取り押さえた殿様—伊予吉田藩の伊達家

院使の饗応役・伊達村豊

元禄十四年(1701年)三月、江戸城松の廊下で浅野長矩が吉良義央に斬りつけたとき、浅野を取り押さえた一人が伊予吉田藩三代藩主・伊達村豊(当時は宗春)でした。村豊の役目は、霊元上皇の使い(院使)の饗応役です。勅使饗応役の浅野と並ぶ役目でしたが、村豊は役目を無事に務め、賞賛されました。地元には「浅野は吝嗇、吉良は名君」という言い伝えまで残っています。家格は外様、殿席は柳間です。

山田騒動と、本藩の支藩へ

吉田藩は、宇和島藩祖・伊達秀宗の五男・宗純に三万石が分けられて始まりました。分知のいきさつには、宗純が叔父の伊達宗勝(秀宗の異母弟で、のちの伊達騒動の首謀者)と組んで遺言書を偽ったという説もあります。貞享三年(1686年)には、元土佐浪人の山田仲左衛門が専横をふるう「山田騒動」が起き、仙台藩の指示で宇和島藩が介入しました。以後、吉田藩は宇和島藩の事実上の支藩として扱われるようになります。

紙の一揆と百姓網

寛政五年(1793年)、紙の専売に反対して山奥の八か村の百姓が立ち上がり、宇和島城下近くの八幡河原に集まって本藩に訴えました(武左衛門一揆)。藩は紙の専売をやめています。吉田藩の産業は木蝋・和紙・干鰯で、浦の百姓が漁場を使って漁業年貢を納める「百姓網」の制度もありました。陣屋町を造るために国安川と横堀が掘られ、横堀はいまも残っています。

宗城の甥・宗敬

最後の藩主・伊達宗敬は、旗本・山口直信の次男で、宇和島藩主・伊達宗城の甥にあたります。藩校を文武館と改め、明治九年に宮内省に勤めましたが、その年のうちに満25歳で亡くなりました。藩主家の墓所がある大乗寺(臨済宗妙心寺派)は、四国で唯一の臨済宗の僧堂です。松の廊下で浅野を止めた殿様の家は、伊予の小さな港町で、海と紙の暮らしを治めていました。

伊予吉田藩をもっと詳しく

隠居料から生まれた3万石

吉田藩の3万石がどこから来たかについては、二つの見方があります。広く知られているのは、宇和島藩初代の伊達秀宗が五男の宗純をかわいがり、父の伊達政宗が亡くなるまで送っていた隠居料3万石を、そのまま宗純に分けたという説です。もう一つは、宗純が兄の宗利をねたみ、仙台の伊達宗勝と組んで秀宗の遺言書を偽ったという説で、宗利が父の筆跡に疑いがあると記した書簡を仙台藩主の伊達忠宗に送ったことが、その根拠とされます。分知は彦根藩主・井伊直孝の仲裁で実現しましたが、そのあとも領地の帰属をめぐる争いが続き、寛文年間には宇和島領とのあいだで一部の村を交換しています。

8代の藩主たち

初代宗純の時代には、元土佐藩浪人の山田仲左衛門が取り立てられて力を振るい、譜代の重臣を退けるよう宗純に讒言しました。下級の藩士や郷士が山田の暗殺を企てて失敗すると、家老4人が江戸へ出て仙台藩に山田を訴え、これが宇和島藩の介入を招きます。宗純のあと、2代宗保は藩主になってわずか2年で江戸で急死しました。3代村豊は松の廊下で浅野長矩を取り押さえた人です。4代村信の代には享保17年(1732年)の大飢饉で2万7000石もの損失が出ましたが、十分な手を打たなかったとされます。5代村賢は紙を藩の専売とし、6代村芳は重い年貢を課す一方で藩校の時観堂を開きました。7代宗翰は宇和島藩主・伊達村寿の子、8代宗孝は宇和島藩主・伊達宗城の実弟で、いずれも本家から養子に入っています。後半の藩主が本家から迎えられたことも、吉田藩が宇和島藩の支藩として扱われていたことをよく示しています。

法華津屋と紙の専売

吉田藩の財政を支えたのは紙でした。藩は紙を専売とし、陣屋町の魚棚に店を構えた豪商の法華津屋(高月家)が和紙の流通を一手に引き受けて、藩に献金しました。藩と結びついた商人が紙の売り買いを握る仕組みは、紙を漉く山の村々の百姓にとっては不満の種でした。寛政5年(1793年)2月の武左衛門一揆は、吉田藩で最大の一揆となり、藩は百姓の求めを受け入れて紙の専売を取りやめています。

3万石の実際の収入

明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県で吉田県が置かれたとき、その草高は3万石、実際の収入にあたる現石は1万4730石でした。名目の石高のおよそ半分です。3万石の大名として求められる体面と、実際の収入との差は小さくありませんでした。

動員兵力の目安

慶安2年(1649年)に幕府が定めたとされる軍役の規定では、1万石あたり235人を出すことになっています。吉田藩の3万石に当てはめると、目安はおよそ710人です。ただしこの規定は案にとどまり、正式には発布されなかったとする説もあります。

『字源』の簡野道明と最後の藩主

最後の藩主・宗敬は嘉永4年(1851年)2月23日の生まれで、明治2年(1869年)4月に従五位下・若狭守となり、同年6月20日に吉田藩知事に任じられました。明治9年(1876年)3月に宮内省に勤め、同じ年の8月29日に東京で亡くなっています。吉田藩士の家からは、漢和辞典『字源』で知られる漢学者の簡野道明も出ました。道明は慶応元年(1865年)に江戸八丁堀で吉田藩士の子として生まれ、4歳で吉田へ移って育ちます。のちに東京高等師範学校を出て漢文教育の第一人者となり、大正12年(1923年)に『字源』を刊行しました。陣屋のあった一帯には、昭和63年(1988年)に陣屋風の建物で簡野道明記念吉田町図書館が建てられています。陣屋は東の国安川と南の河内川を天然の堀とした造りで、跡地の周りにはいまも石垣の一部が残っています。

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