新谷藩(大洲藩支藩)/加藤家1万石:加藤泰令 農民鉄砲隊「郷組」を組織し戊辰戦争では新政府軍として出陣した新谷藩

新谷藩(大洲藩支藩) 加藤家1万石 最後の藩主 加藤泰令

新谷藩(大洲藩支藩)

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藩の歩み

新谷藩は大洲藩の支藩として新谷(大洲市内)に新谷陣屋が置かれました。元和九年(1623年)、大洲藩2代藩主「加藤泰興」の弟「直泰」が幕府より一万石分与の内諾を得て成立しました。陣屋の構築を行っていたが正式には寛永十九年(1642年)に新谷陣屋が完成しました。藩からの分与は本来は陪臣の扱いであるが、新谷藩は幕府より大名と認められた全国唯一の藩です。

なお、陽明学者の「中江藤樹」は初代藩主 加藤貞泰に従って大洲へ移った大洲藩士で、寛永十一年(1634年)に母への孝養を理由に脱藩し、故郷の近江国へ帰りました。新谷藩との関わりは確認できていません。江戸時代後期になると、肱川の氾濫による水害や火災に見まわれ、藩財政は困窮を極め、一時は大洲藩が藩政を執行しました。明治初頭での実高は九千六百九十三石と、表高の一万石を割り込んでいました。

文久二年(1862年)十二月二十日、父の隠居を受けて「加藤泰令」が跡を継ぎます。文久三年(1863年)六月、農民鉄砲隊である「郷組」を組織し、その農兵隊の他、正規藩兵をもって新政府軍として行動しました。

明治四年(1871年)七月十四日、廃藩置県により、新谷県が設置されたが、同年十一月十五日には廃止され新たに宇和島県に編入されました。その後、神山県を経て愛媛県に編入されました。

本家・大洲藩との関係

新谷藩は、伊予の大洲藩(加藤家)の支藩です。加藤家の分家が一万石を領しました。

幕末、新谷藩は農兵からなる「郷組」を組織し、戊辰戦争に参戦しました。最後の藩主は加藤泰令です。いろは丸事件で知られる本家・大洲藩とともに、時代の動乱をくぐり抜けた小さな支藩でした。

分知が決まるまで、十一年かかった

新谷藩の成立は簡単ではありませんでした。初代大洲藩主 加藤貞泰の死後、将軍家光の指示で長子 泰興に五万石、次男 直泰に一万石を分けることになったのですが、泰興側は内分定書を信用せず拒み、直泰側は分知を要求して、対立は十一年以上続きます。万治元年(1658年)に幕府が「御扱衆」五家を調停者に任命し、寛文四年(1664年)に将軍家綱が大洲藩主に与えた朱印状に「内壱万石加藤織部正進退すべし」と記され、大洲藩の内分としての新谷一万石が公に認められました(新谷藩単独の朱印状は出ていません)。

立藩年が資料で分かれるのはこの経緯のためで、元和九年(1623年)とするもの、寛永十六年(1639年)とするもの、寛永十九年(1642年)に内分が成立したとするものがあります。

三万石以下は、城を持てない

陣屋は大洲市新谷町、現在の市立新谷小学校の敷地にありました。大洲市の説明では、陣屋とは三万石以下で城を持たない大名の屋敷を指します。一万石の新谷藩は、そもそも城を名乗れませんでした。

寛永十九年、大洲城から約八キロ離れた新谷に陣屋と陣屋町が建てられ、武家屋敷三十一軒、町家七十六軒が並びました。陣屋跡に残る唯一の建物が麟鳳閣で、慶応四年(1868年)三月の建築です。評定所と謁見所で、木造平屋の入母屋造・桟瓦葺。明治期には県庁舎、のちに小学校の校舎として使われました。愛媛県指定有形文化財で、昭和三十六年三月三十一日の指定です。

郷組と、中江藤樹の取り違え

郷組は文久三年(1863年)六月、藩主 加藤泰令が組織した農民鉄砲隊です。一人一貫目の献銀と、出動中は二人扶持を給付するという条件でした。本家の大洲藩も同じ文久三年、侍講 武田亀五郎敬孝の建言で一月から動き、三月八日に「郷筒」の名で募集を始め、四月二日に領内の庄屋へ鉄砲百三十二挺を配り、五月には約三百人になっています。新谷が「郷組」、大洲が「郷筒」という呼び分けでした。

なお陽明学者の中江藤樹を郷組と結びつける説明を見かけますが、これは成り立ちません。藤樹は初代 加藤貞泰の伊予大洲転封に従って十歳で大洲へ移った人で、元和八年(1622年)に家督百石を相続し、寛永十一年(1634年)に脱藩して近江へ帰りました。亡くなったのは慶安元年(1648年)、幕末より二百二十年も前のことです。

錦旗を奉じて

慶応四年一月四日、新谷藩は錦旗奉行 五条為栄の警衛を命じられ、同日、錦旗を奉じて鳥羽口に出陣しました。一月十日には松山征討で矢野淳作ら三名を松山藩の老臣 菅五郎左衛門良弼のもとへ派遣し、隊長 加藤弘人以下が出動して二月十七日に立花口を警備。のちに高知藩の要請で三津へ移り、兵糧米の供給にあたっています。一万石の藩が、錦旗の警護から兵糧の手配まで引き受けた形です。

加藤泰令は明治二年六月に知藩事、明治四年七月に免官。明治十七年七月八日に子爵となり、大正二年(1913年)に亡くなりました。新谷の市指定文化財は、新谷藩陣屋跡(昭和三十一年九月三十日)、新谷藩金蔵(昭和五十六年三月七日)、新谷藩主加藤家の墓所(昭和六十三年二月二十四日)、家老徳田季一・寄一・寄隆の墓(昭和六十三年四月二十五日)です。

貞泰の遺言と、中江藤樹の脱藩

遺言で分けられた1万石

藩祖の加藤直泰は、大洲藩初代・加藤貞泰の次男です。大洲市の資料によると、貞泰は「領分六万石のうち一万石を次男の直泰に分知するように」と遺言しましたが、大洲藩の家老・大橋作右衛門が分割に強く反対したという説があります。貞泰は伯耆米子藩主だった人物です。家格は外様、殿席は柳間とされ、藩校は「求道軒」です。

漁場をめぐる争い

領地は大洲藩領内の村々に散らばる24か村で、不便だったため松山藩と替え地をしたところ、漁場や薪を取る権利の争いが起き、万治元年(1658)には松前の漁民との大乱闘に発展したと伝わります。土佐藩主の調停で決着したといわれます。

藤樹と新谷

陽明学者の中江藤樹は、寛永9年(1632)に新谷藩へ任地替えになり、そこから脱藩したとする資料があります。分知のときに直泰に付けられた家臣だった可能性もあります。最後の藩主・加藤泰令は天保9年(1838)生まれで、墓所は東京・台東区の海禅寺です。陣屋の敷地は明治に一部が売られましたが、金蔵は民家に残っているとされます。

考察:近江聖人を生んだ小藩

中江藤樹が母への孝養のために脱藩した先が新谷藩だったとすれば、「近江聖人」の出発点はこの1万石の小藩だったことになります。確定できない点もありますが、追いかけてみたい縁です。

場所・アクセス・地図

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