伊藤助太夫 宛(慶応三年一月十七日) 坂本龍馬の手紙 原書と現代文翻訳

伊藤助太夫 宛

原文
九日下の関を発ス。同十一日長崎港の口に来る。夫より私壱人上陸、水夫等ハ同十四日ニ上陸、荷物もあげ申候。右よふ御役所まで御達可被遣候。百拝。十七日伊藤九三様才谷梅太郎御直披
現代文
9日に下関を出発しました。同月11日に長崎港の入り口に着ました。私たち何人かが上陸し、水夫らは同月14日に上陸し、荷物も運びました。この件、お役所までお伝え下さるようお願い致します。17日伊藤九三様(伊藤助太夫)才谷梅太郎

出典:原文は宮地佐一郎編『龍馬の手紙』(講談社学術文庫)によります。現代文は、運営者がこの原文をもとに独自に訳したもので、解説も運営者が書いています。

目次

この手紙について

「九日に下関を発ち、十一日に長崎港の入り口に着きました。そこから私一人が上陸し、水夫たちは十四日に上陸して荷も揚げました。この件を役所へ伝えてほしい」という、航海と荷揚げの報告です。十七日付で「才谷梅太郎」の署名。海運業を営む龍馬の、几帳面な実務ぶりがよく表れた一通です。

宛先「伊藤助太夫」とは

伊藤助太夫
坂本龍馬(左)と伊藤助太夫(パブリックドメイン/Wikimedia Commons)

伊藤助太夫は下関の豪商・船問屋で、海運の実務でも龍馬に頼りにされた協力者でした。役所への取次ぎなど、地元の窓口役も担っていました。

この手紙が書かれたころ

下関と長崎を船で結び、人と荷を動かす海援隊の日常のなかにありました。航海の逐一を報告する筆まめさに、事業家としての龍馬の顔がのぞきます。海運は諸藩の経済と武備を支える大動脈でした。船の往来そのものが、時代を動かす力になっていました。土佐商会と海援隊が長崎—下関の交易網を担い、藩の富国に貢献していました。龍馬はその中心で船を差配していました。

慶応三年の正月、長崎へ戻った報告

宮地佐一郎編『龍馬の手紙』はこの一通を慶応三年一月十七日のものとしています。書簡にあるのは「十七日」だけですから、年と月は宮地の比定です。九日に下関を出て、十一日に長崎港の入口に着き、龍馬ひとりが先に上陸し、水夫たちは十四日に上陸して荷も揚げた—その届けを役所に出してほしい、と下関の伊藤九三に頼んでいます。

伊藤九三は伊藤助太夫のことで、下関の本陣伊藤家の当主でした。龍馬は伊藤邸の一室を「自然堂」と名づけて使い、この年にはお龍を呼び寄せて住まわせています。船の出入りの届けを代わりに役所へ出してもらえる相手だったということは、伊藤がそれだけ土地の顔役だったということでもあります。慶応三年の正月といえば、長崎で後藤象二郎と会って土佐藩との関係が改まり、四月に亀山社中が海援隊へ変わる、その直前にあたります。

同じころの日本—慶応三年の正月

世の中では 前年十二月二十五日に孝明天皇が亡くなり、慶応三年(1867)正月九日、十六歳の睦仁親王(のちの明治天皇)が皇位を継ぎました。二日後の正月十一日には、将軍慶喜の弟・徳川昭武がパリ万国博覧会に参加するため横浜を出航しています。幕府はフランスとの結びつきを強め、国の立て直しを急いでいました。

龍馬と土佐 長崎に戻った龍馬は、この正月、土佐藩の参政・後藤象二郎と長崎の料亭・清風亭で会ったと伝えられます。かつて土佐勤王党を弾圧した藩の重役と、脱藩浪士の龍馬が手を結んだこの会談が、のちの海援隊の発足と大政奉還へとつながっていきます。

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この一通の翌月、龍馬は下関の住人になる

日付を押さえると、この手紙の位置がはっきりします。

山口県立山口図書館の資料展示の解説によりますと、慶応三年二月、龍馬は下関に住むことを認められ、お龍とともに伊藤家で過ごすことになります。この手紙は慶応三年一月十七日。下関に腰を据える、そのひと月前の便りです。

宛先の伊藤助太夫は伊藤九三という名でも記録に残る人で、同館の解説では下関の本陣当主、そして龍馬の経済的支援者とされています。慶応元年以来、龍馬は下関に来るたび伊藤家を宿にしていたそうです。

二年あまり宿として使い続けた家が、やがて住まいになる。この一通が長崎と下関を行き来する実務の報告でありながら、妙に気安い調子なのは、そういう間柄だったからでしょう。

「自然堂」は、伊藤邸の一室だった

龍馬と下関というと「自然堂」の名が出てきますが、これは独立した建物ではありません。同館の解説では、伊藤九三が龍馬に提供した自宅の一室が自然堂です。

一軒家を借りたのではなく、支援者の家の一間を使わせてもらっていた。海援隊を率い、薩長のあいだを動いていた時期の龍馬の住まいが、商家の一室だったということになります。

いま残っているのは、碑だけ

伊藤家の跡は下関市阿弥陀寺町五番地。山口県の公式観光情報によりますと、伊藤家は町内の大年寄で奉行を務めた家柄で、参勤交代のときに大名の宿となる本陣をつとめていました。幕末の当主はシーボルトや坂本龍馬と関わりがあったとされます。

そして現在は「本陣伊藤邸址」の碑があるのみです。国や県の文化財指定はわかっていません。龍馬が京都で討たれたとき、お龍はこの地に滞在していました。

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